黒田孝高、加藤清正、藤堂高虎の三人は「築城の名手」と呼ばれています。
今回は、それぞれの築城の特徴と代表的な城を紹介いたします。
黒田孝高の場合
黒田孝高(くろだよしたか)は、通称・黒田官兵衛として広く知られています。
天文15年11月29日(1546年12月22日)、播磨国の黒田職高の嫡男として生まれましたが、13歳頃に母を亡くし文学にのめりこみました。
その後、母方の祖父にあたる小寺政職の近習となり、父・職高とともに土豪を征伐、小寺官兵衛を名乗るようになります。
織田信長によって小寺氏が滅ぼされると織田家の家臣として秀吉の与力となり、これ以降「黒田」を名乗るようになったと言われています。
鳥取城の飢え殺しや備中高松城の水攻めなど多くの戦いに参戦し、調略や交渉などで功績をあげました。その後、本能寺の変が勃発すると備中高松城を攻めていた秀吉に毛利家と和睦して明智光秀を討つように進言し、中国大返しを成功させたのも黒田孝高だと言われています。
織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼に仕え、最後は徳川家康に仕えました。
築城の特徴
黒田孝高の築城は実戦向きで、土地の特徴を計算に入れた縄張りが特徴です。(※縄張りとは、城の構造をわかりやすく示した図面のこと)
日本三大水城の一つとして有名な「中津城」は、黒田孝高が築城し細川忠興が完成させました。
堀は高瀬川の河口を利用して海水を引き込んでいます。
同じように川を堀として利用しているのが「福岡城」です。
福岡城は黒田孝高・長政父子が、関ヶ原の戦いでの戦功により筑前一国を賜った後に築城が開始され、福岡藩黒田氏の居城となった城です。
城の東側にある那珂川を堀として利用し、西側の干潟「草ヶ江」を池沼堀として活用して丘陵地に築かれました。
戦国時代の山城は、崖や川などの地形を利用した城が多くみられますが、黒田孝高も天然の要害となるような「地の利を生かした築城」が得意だったと言われています。
加藤清正の場合
加藤清正は、永禄5年6月24日(1562年7月25日)尾張国の刀鍛冶・加藤清忠の子として生まれました。
清正が3歳の時に父・清忠が亡くなり、羽柴秀吉の生母と清正の母が親戚関係にあった縁から、近江長浜城の城主となったばかりの秀吉の小姓となります。
本能寺の変が起こると秀吉に従って山崎の戦いに参加し、翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将の山路正国を打ち取り、「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられました。
その後、小牧・長久手の戦い・四国征伐・九州平定に参加し、さらに朝鮮出兵にも参戦しています。
秀吉が亡くなった後は、徳川家康の養女を継室として娶り、家康に従いました。
築城の特徴
「賤ヶ岳の七本槍」や朝鮮出兵時の「虎退治」など多くの武勇伝を持つ加藤清正ですが、築城においてもその名を轟かせています。
清正が築城した城で最も有名なのは、居城である「熊本城」ではないでしょうか。
この城の特徴は「扇の勾配」と呼ばれる、下側の部分の勾配が緩やかで、上部に行くにつれて次第に急勾配になる石垣です。
この石垣の積み方は「武者返し」とも呼ばれ、石垣を登ろうとする敵の侵入を防ぐ役割があります。
このように加藤清正は、高石垣を張り巡らせた縄張りを得意としていました。
その他にも熊本城は、北・東・南の崖を利用して高石垣とし、西側には空堀を掘りました。
城内には高い場所から敵を攻撃できるような場所を作ったり、登城路を屈曲させて見通しがきかないようにするなど、攻め込みにくい工夫がなされています。
藤堂高虎の場合
藤堂高虎は、弘治2年1月6日(1556年2月16日)近江国の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。
幼いころから人並外れた体格で性格も荒く、兄が戦死した後に若くして家督を継ぎました。
近江国の浅井長政に足軽として仕え、姉川の戦いでは父・虎高とともに磯野員昌隊に所属し、小谷城の戦いで浅井氏が滅ぶと紆余曲折の末に織田信長の甥・信澄に仕えましたが、加恩もなく、また母衣衆とも喧嘩をしたため長続きしませんでした。
その後、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長に仕えて頭角を現していきます。
中国攻めや賤ヶ岳の戦いに従軍し武功を挙げ、秀長の死後は親交があった徳川家康に与し、会津征伐に従軍、関ヶ原でも家康に味方しました。
築城の特徴
藤堂高虎が築城や改修に携わった城として有名なのは「今治城」「伊賀上野城」です。
「今治城」は三重の堀を持ち、堀を瀬戸内海につなげることで海水を引き入れた海城です。
城内に海から物資を運び入れるための「舟入」も作られていました。
この城は、梯郭式(ていかくしき)の縄張りです。
また、加藤清正の熊本城とは違い、石垣は反りのない直線的な積み上げられ方をしています。
この直線的な積み方の石垣は「宮勾配(みやこうばい)」と呼ばれており、伊賀上野城では高さ30mの高石垣を見ることができます。
このような石垣の積み方は、藤堂高虎の築城の特徴として見られます。
伊賀上野城は豊臣時代には大坂城の守りとして、高虎が改修してからは大坂城の豊臣氏を見張るための城とされました。
終わりに
黒田孝高・加藤清正・藤堂高虎の築城には、それぞれに違った特徴がありました。
城を見に行った際には、自分ならどうやって攻めるのか考えてみるのも一興でしょう。
参考文献 :
(財)日本城郭協会監修「日本100名城 公式ガイドブック(学習研究社)」
金子堅太郎「黒田如水傳(博文館)」 藤田達生「藤堂高虎論(塙書房)」
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