猫というものは実にかわいい生き物だ。猫が好きな人間であれば、猫の前では身分など関係なく骨抜きになってしまうものだろう。
猫が日本で愛玩動物として飼われ始めたのは平安時代頃からと言われ、歴史上の偉人の中にも多くの猫好きがいた。
今回は、後世まで猫好きエピソードが伝わっている日本の偉人について解説しよう。
目次
宇多天皇 ~日本初の猫日記著者
宇多天皇は、887年から897年に在位した第59代天皇だ。
学者出身の菅原道真を重用して「寛平の治」と呼ばれる徳政を行い、京都の仁和寺を建立した天皇としても有名だが、日本で初めて「猫日記」を記した人物でもある。
宇多天皇が愛猫の黒猫を飼い始めたのは、まだ天皇に即位する前のことだ。当時は臣籍に降下し源定省と名乗っていた宇多天皇は、父の光孝天皇から1匹の黒猫を賜り、即位後もその猫を溺愛していた。
宇多天皇の愛猫家ぶりは、宇多天皇が在位中に記した日記『寛平御記』から読み取れる。宇多天皇が愛猫を褒め称えている一節を紹介しよう。
「愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺黑色也。此獨深黑如墨」
(私の猫の毛色は他に類を見ない。よその猫はみんな浅黒いのに、私の猫は墨のような漆黒の毛色で本当に美しいのだ。)
『寛平御記』には自分の猫の美しさやネズミ捕りの上手さに加え、毎朝貴重な乳粥を与えていた様子や、猫に話しかける様子、父帝から賜ったから飼っているだけというような照れ隠しの言い訳まで記されている。
「うちの子が1番!」という感覚が時の天皇にもあったのかと考えると、何とも微笑ましい気持ちになってしまう。
一条天皇 ~猫に位階と乳母を与える
一条天皇は、986年から1011年に在位した第66代天皇だ。
一条天皇の御代は平安王朝文化が最も華やいだ時代で、一条天皇の皇后・定子には清少納言が、中宮・彰子には紫式部が女官として仕えていた。
一条天皇は愛妻家として知られるが、宇多天皇以上に過激な愛猫家でもあった。一条天皇が溺愛していた猫こそが、猫としては日本で最も古い名前の記録が残る「命婦の御許(みょうぶのおとど)」だ。
一条天皇は生まれたばかりの命婦の御許のために、貴族たちを集めて産養(うぶやしない)という子供の誕生を祝う儀式を行い、位階を与えて「馬の命婦」という乳母をつけた。
清少納言が記した『枕草子』の第7段「上にさぶらふ御猫は」に、命婦の御許にまつわる逸話が書かれている。
ある日、縁側で寝ていた命婦の御許を乳母は屋内に入れようとしたが、命婦の御許は言うことを聞かなかった。
業を煮やした乳母は定子がかわいがっていた翁丸という犬を、命婦の御許を驚かすようけしかけたため、命婦の御許は驚いて逃げて一条天皇の懐に飛び込んだ。
愛猫が危険に晒された一条天皇は、翁丸と乳母に大激怒。乳母はクビにして、家臣に翁丸を打ち据えたうえで島流しにしろとまで言い放った。
内裏から追放された翁丸は自力で戻ってきたが、役人たちに打たれ追い払われる。その翌日にボロボロになった翁丸を清少納言が見つけ定子のもとで保護され、その健気さを見た一条天皇は翁丸をやっと許したという。
島津義弘 ~7匹の猫と戦場へ
島津義弘は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した薩摩の武将で、兄の島津義久の後を継いで島津家第17代当主となった人物だ。
勇猛果敢な武将として海外にまで名を轟かせ、「鬼島津」の異名で恐れられた島津義弘は、慶長の役の時に7匹の猫を戦場に連れて行った。しかしそれは猫に癒されるためではなく、猫の瞳孔の形で時間を読むためだったといわれる。
しかし海外の慣れない環境、しかも戦場という過酷な場に置かれたためか、7匹の猫の中で無事に日本に帰れたのはたった2匹で、その2匹の猫はヤスとミケと名付けられた。
ヤスは茶トラ白の猫で、その名は義弘の次男である久保(ひさやす)が自分の名前から音を取って名付け、久保はヤスを大層かわいがったという。鹿児島ではヤスにあやかって茶トラ白の猫は「ヤス猫」と呼ばれるようになった。
日本に帰国した島津義弘は、戦友として働いてくれた猫たちを猫神として祀った。
今も島津家別邸の仙厳園には猫を祀った猫神社が残っており、毎年2月22日の猫の日には「愛猫長寿祈願祭」が行われている。
ちなみに同じ島津家出身の人物では、江戸13代将軍徳川家定の御台所であった天璋院篤姫も、愛猫家だった人物として知られている。
篤姫はもともと狆という品種の小型犬を多頭飼いしていたが、夫となる家定が動物嫌いで特に犬を嫌ったため、猫を飼うようになった。
篤姫は愛猫に「サト姫」と名付け、大奥で贅沢な暮らしをさせて溺愛した。
手厚く世話されたサト姫は、獣医もろくにいない時代に16歳まで長生きしたという。
伊達政宗 ~愛猫を手紙で褒めちぎる
伊達政宗と言えば、「独眼竜政宗」の異名でも知られる戦国時代から江戸時代にかけて活躍した戦国武将で、東北を平定し仙台藩を開いて東北地方の繁栄を築いた人物だ。
戦略や政治に長けていただけでなく、文化人としての誉れも高い政宗だが、実は飼い猫を溺愛する愛猫家でもあった。
筆まめな人物としても知られる政宗は、自分に猫を譲ってくれた江戸幕府の伝達役・野々村四郎右衛門に宛てて書いた手紙の中で、現代の言葉にすれば以下のように愛猫を褒めちぎっている。
「(譲ってもらった)子猫をしっかり預かりました。男ぶり(顔つき)がなんとも見事です。夜に子猫が自分よりも大きいネズミを捕まえたと家臣から聞き、ますます大事に思うようになりました。首輪も洒落ていて、一段と華やかに見えます。直接お会いしてお礼をお伝えしたいです。」
オスと思しき子猫の顔つきの男っぷりや強さを褒めるところが、なんとも戦国武将らしい文面だ。
政宗が残した多くの書状の中で猫について言及しているのはこの書状のみだが、猫を譲ってくれた野々村に対して直接お礼が言いたいというぐらいなのだから、よほどその猫のことが気に入ったのだろう。
偉大な功績とギャップのある素顔が魅力的な伊達政宗だが、無骨なイメージが強い戦国武将にもかかわらず、料理好き、筆まめ、ファッションリーダー、さらに猫好きという要素を併せ持つのだから、その人気にも納得せざるを得ない。
政宗も、もしかしたら家臣の目を盗んで猫吸いをしていたかもしれないと思うと、不思議と親近感が湧いてくるものだ。
太田道灌 ~猫に救われた名将
太田道灌は室町時代に活躍した武将で、江戸城を築城した人物として有名だ。
武将としても学者としても文化人としても優れた人物だった道灌だが、彼は猫に命を救われたことがあるという。
道灌は豊島家との間で起きた江古田原の戦いの最中に、道迷いという危機に瀕した。たかが道迷いと侮ってはいけない。現代のように地図アプリどころか道路標識さえ無い時代、ましてや合戦中ともあれば自分の居場所がわからないのは致命的な状態だ。
敵兵に見つかればすぐに首を取られてもおかしくないという状況の中、太田道灌の目の前にどこからともなく1匹の黒猫が現れた。
道灌がその黒猫に導かれるように進んでいくと自性院という寺にたどり着き、そこで一夜を過ごして兵を整え、見事戦いに勝利することができたという。
道灌は命の恩猫となってくれた黒猫を江戸城に連れ帰り、末永くかわいがった。そして黒猫の死後は丁重に弔い、供養のために自性院に猫地蔵を奉納したと伝わる。
江戸城は皇居となったが、自性院は今も新宿区西落合に現存している。
同院は別名「猫寺」とも呼ばれ、毎年2月3日の節分の日に、秘仏となった猫地蔵が開帳されるのだ。
猫科の一番小さな動物、つまり猫は最高傑作である
この言葉は、レオナルド・ダ・ヴィンチが残した名言だ。
大きな功績を残したレオナルドも、立派な猫好きの1人だった。猫好きには国境など無いに等しいと言える。
自分とは縁遠いと思っていた偉人でも、猫好きだったと知るだけでなぜか親近感が湧いてきて、さらにはその偉人の生き様にも興味が湧いてくる。
どんなに偉大な人物でも、猫の前では皆1人のただの人間だ。そう考えればもしかすると、猫は世界に平和をもたらしてくれる偉大な存在なのかもしれない。
この記事へのコメントはありません。