紀元前480年、アケメネス朝ペルシアの王クセルクセス1世は、ギリシア征服を目指して大軍を南下させました。
その進路を阻むため、スパルタ王レオニダス1世と300人の精鋭たちは、細い峠道で圧倒的な兵力差を跳ね返し、侵攻を食い止め続けます。
しかしこの英雄たちは、エフィアルテスという1人の男の裏切りにより、悲劇的な終焉へと導かれたのです。
ペルシア戦争の激化と要衝テルモピュライ

画像 : テルモピュライのレオニダス public domain
古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、クセルクセス1世の遠征軍は戦闘員だけで約264万人、従軍者まで含めれば約528万人に達したと記しています。
現代ではこの数字は誇張と見られていますが、ペルシア軍が当時のギリシア連合軍を圧倒する大軍であったことは確かでしょう。
そしてこのペルシア軍の南下を阻止するため、ギリシア側が防衛地点として選んだのが、山と海に挟まれた狭隘な地であるテルモピュライでした。
テルモピュライは「熱い門」を意味し、温泉が湧き出る地としても知られており、北から中央ギリシアへ侵入するために必ず通過しなければならない戦略的要衝でした。

画像:レオニダス王と伝わる重装歩兵の大理石像 wiki c Ticinese.jpg
スパルタ王レオニダス1世は、約300人のスパルタ市民兵に加え、テスピアイやテーバイ、フォキスなど同盟諸都市から集まった数千人の兵を率い、この地に布陣しました。
当時60歳前後の高齢であったと推定されますが、スパルタ教育の粋を集めた戦士たちの筆頭として、王自ら最前線に立ったのです。
ペルシア軍は数日間にわたり猛攻を仕掛けますが、断崖と海に挟まれた狭い地形では、騎兵部隊も大軍の優位も十分に活かせません。
一方、ギリシア連合軍は重装歩兵の密集陣形であるファランクスを組み、装備の面でも優位に立っていました。
ペルシア軍の波状攻撃はことごとく退けられ、クセルクセス1世の精鋭部隊「不死隊」すらも、ギリシア軍の長槍と堅牢な盾の前に押し返されます。
正面からの攻撃においては、寡兵ながらギリシア側が有利でした。
精鋭を投入してもなお突破できない現状と損害の大きさに、クセルクセス1世は焦りを募らせていきます。

画像 : テルモピュライの戦いを描いた版画。スパルタ兵らギリシア軍が狭隘な地形でペルシア軍を迎え撃つ様子が表現されている Jacob Abbott Public domain
裏切り者エフィアルテスの登場と秘密の小道
戦局が膠着状態に陥る中、ペルシア軍の陣営に一人のギリシア人が現れます。
それはマリス地方出身のエウリュデモスの息子、エフィアルテスでした。
彼は、地元の人間しか知らないような山道や、軍隊が通過できる抜け道など、戦場周辺の地理に精通していました。
そしてクセルクセス1世に対して、秘密の山道の存在を告げたのです。
この道は「アノパイア道」と呼ばれ、険しい山中を抜けてギリシア軍の背後を突くことが可能な経路でした。

画像 : テルモピュライの戦いの進軍図。赤はペルシア軍、青はギリシア軍(スパルタ側)を示し、緑の破線はエフィアルテスが案内した山道(アノパイア道)による迂回路を表す Fulvio314 CC BY 3.0
エフィアルテスがギリシアを裏切った動機は、ペルシアからの莫大な報酬であったとされています。
ヘロドトスは彼以外にも道を教えた可能性のある人物として、近隣の町カリステュオス出身のオネテスや、戦場近くの港町アンティキラの有力者であったコリュダロスらの名を挙げていますが、最終的にはエフィアルテスであると断定しています。
これは後に、ギリシア諸都市の代表による連合会議がエフィアルテスを正式に指名手配し、その首に懸賞金をかけたことが根拠とされています。
クセルクセス1世は、直ちに不死隊をこの道へと送り出しました。
夜の闇に乗じて山道を進むペルシア軍は、途中で道を警備していた地元フォキス地方の守備兵を突破し、夜明けとともにギリシア軍の背後へと迫ります。
この迂回作戦が成功したことで、レオニダス1世たちは前後から挟まれる形になりました。
エフィアルテスが伝えた山道の情報は、ギリシア連合軍を絶体絶命の危機へと追い込んだのです。
レオニダスの決断とスパルタ300人の最期

ペルシア王クセルクセス1世の浮彫 wiki c Darafsh public domain
背後から敵が迫っているという報を受けたスパルタ王レオニダス1世は、冷静に状況を判断しました。
彼は味方のギリシア同盟軍の多くを逃がして全滅を防ぎ、自身と300人のスパルタ兵、そして共に残ることを選んだテスピアイとテーバイの兵士のみを現場に留めました。
スパルタ兵が死を覚悟して残った背景には、戦場での逃走を恥とする厳しい掟と教育がありました。
またデルポイの神託では、スパルタの国が滅びるか、王が命を落とすかのどちらかだと告げられていました。
レオニダス1世にとってこの地で踏みとどまることは、王としての誇りと国を守る使命を両立させる道でもあったのです。
最後の戦闘は凄惨を極めました。
前後をペルシア軍に挟まれたギリシア軍は、もはや生き残るための防御ではなく、敵に最大限の打撃を与えるための死を恐れぬ兵士となって突撃しました。
レオニダス1世は激しい乱戦の中で戦死しましたが、彼の遺体を巡ってスパルタ兵とペルシア兵の間で激しい争奪戦が繰り広げられたと伝えられています。
スパルタ兵は槍が折れれば剣で、剣が折れれば素手や歯を使ってでも戦い続けましたが、最終的には近接戦闘を避けたペルシア軍による矢や投げ槍の集中攻撃によって全滅しました。
共に残ったテスピアイ軍の指揮官デモフィロスも、最後まで戦い抜いて命を落としました。
一方、テーバイ兵の一部は戦況が決定的になると降伏し、ペルシア軍の捕虜になったとヘロドトスは記しています。
エフィアルテスが裏道を教えさえしなければ、また違った形になっていたかもしれません。
結果として300人のスパルタ兵は全員が戦死し、テルモピュライの要衝はペルシア軍の手に落ちたのです。
裏切りの代償とエフィアルテスの末路
テルモピュライの激戦の後、裏切り者のエフィアルテスはペルシアからの莫大な報酬を夢見ていましたが、戦況の変化とともに彼の運命は暗転します。
紀元前480年9月、アテナイ近海におけるサラミスの海戦で、ギリシア艦隊はペルシアの大軍を撃破、続くプラタイアイの戦いでも歴史的な勝利を収めたのです。

画像:サラミスの海戦までのペルシア遠征軍の動き public domain
こうした情勢の中で、エフィアルテスはギリシア人たちの激しい憎悪を一身に受けることになります。
先述したように、ギリシア諸都市は彼を大罪人と見なし、その首に懸賞金をかけたのです。
エフィアルテスはギリシア北部のテッサリア地方へ逃亡しましたが、追われる身である彼に平穏な生活は訪れませんでした。
その後、裏切りの舞台となったテルモピュライの南に位置する港町、アンティキラへと潜伏先を移します。
しかし紀元前470年頃、彼はこの地で同じトラキス出身のアテネアデスという男によって殺害されました。
ヘロドトスによれば、裏切りとは無関係な私怨であったとされています。
それでもスパルタはエフィアルテスを討った功績を認め、アテネアデスに多額の報酬を支払いました。
報酬を求めて祖国を裏切った男は、皮肉にもかつての裏切りの現場からほど近い場所で、同郷の者の手にかかって命を落としたのです。
エフィアルテスという名は、現代ギリシア語で「悪夢」を意味する言葉にもなりました。
一方、テルモピュライにはスパルタ兵たちの最期を伝える碑文として「旅人よ、スパルタへ行きて伝えよ。我ら、かの地の掟に従いてここに横たわる」と刻まれています。
参考文献 : 『ペルシア戦争 自由のための戦い』/馬場恵二(著) 『歴史』(下)/ヘロドトス(著)、松平千秋(訳)
文 / 草の実堂編集部
























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