知名度抜群の偉人 野口英世
野口英世(のぐちひでよ)は、日本人であればその名を知らない人はいない程の、知名度を誇る偉人ではないかと思います。
千円札の肖像にも使われ日本人の多くが、幼いころに負った火傷というハンデにも関わらず一流の医学者となり、世界に知られる人物となったと教わってきたのではないかと思います。
それは事実ですが野口自身の人間性という部分においては、苦学・努力をした完全無欠な偉人とは違う実像を覗かせています。
医師になるも連日の遊郭通い
野口は1876年(明治9年)に福島県の猪苗代町の貧しい農家に生まれました。幼い頃に囲炉裏で負った火傷のため左手の自由が利かないことから、学問で身を立てる道を母親から言い聞かされて育ち、その甲斐あってか学校の成績は非常に優秀だったと伝えられています。
野口は15歳の頃に手術を受け、少しずつですが左手が使えるようになります。これに感銘を受けた野口は医学の道を志すようになりました。そして高等学校を卒業した野口は続いて済生学舎(現在の日本医科大学)を卒業し、見事に医師の開業試験に合格しました。
野口はその優秀な頭脳で英語やドイツ語を短期間で習得しましたが、私生活においては連日遊郭通いをするなど、放蕩の日々を送りました。
アメリカ渡航前の散財
その後、北里柴三郎の伝染病研究所に職を得た野口でしたが、周りの同僚たちは皆、帝国大学を出た経歴の持ち主であり、その中で野口が名を上げることは難しいと痛感します。
しかし当時の野口は研究面では真面目なものの、やはり連日のように吉原の遊郭へと通い、自らの給料だけでは到底そんな生活は出来なかったため、借金を重ねてその費用を捻出していました。
一説にはアメリカ渡航を志望したのも、学者としての成功のためと並んで、それらの借金から逃れようと考えたからとも言われています。
更に野口はアメリカへ渡航する前に、裕福な商家の娘との婚約を進めました。これにより結納金として300円を得てそれを渡航費に充当しようとしたものでした。しかし、いざ300円を手にした野口は、あろうことか渡航の前に料亭で散財してその金を使い果たしてしまいまいた。このとき野口は恩師を通して300円を工面しなんとか渡航しました。
その後、野口は婚約者からの結婚の催促を受けながら、先方が諦めることを狙って金銭を要求した挙句、アメリカ人の女性と結婚しています。
アメリカでの成功
野口は1900年(明治33年)に渡米先のペンシルバニア大で蛇毒血清の研究論文を評価され脚光を浴びました。
この成功から、ロックフェラー研究所に迎えられた野口は梅毒の研究に従事しました。この研究で神経梅毒患者の脳内にスピロヘータを発見したことで、更に注目を浴びるとノーベル医学賞の候補にも名を連ねました。しかし第一次世界大戦によっておしくも受賞を逃したとも言われています。
しかしアメリカでも私生活では放蕩を極め、職場で野口の借金と酒癖の悪さを知らない人はいなかったとも伝えられています。
黄熱病で死去
1918年(大正7年)に野口は黄熱病の研究で南米のエクアドルに赴きました。そこで新種のスピロヘータを発見した野口は治療のためのワクチン開発に貢献しました。
しかし1924年(大正13年)にアフリカの黄熱病患者にはそのワクチンが効かないことが判明しました。実は野口がエクアドルにおいて発見したものは違う病気・ワイル病の菌でした。
沽券をかけて野口は現在のガーナ共和国に赴きましたが黄熱病の病原体を見つけることは出来ませんでした。黄熱病はウイルスが原因であり、当時の技術ではウイルスを見つける事は不可能だったからです。そのため野口は成果を上げられず、自らも黄熱病に倒れて1928年(昭和3年)に死去することになりました。
今更それ言う?
「野口英世」読ませていただきました。私も自身のウェブサイト「西原修造 エンディングPEN」の中で、真の野口英世像(真の業績など)、美化・偶像化・神格化されていない野口英世像について触れておりますので、よろしければ御覧くださいませ。もうひとつのサイト「エンディングPEN 作りながら思ったこと」(リンクで飛べます)の中でも触れております。