三国志、皆さんも好きですか?
筆者も大好きで、光栄の歴史シミュレーションゲーム「三国志」シリーズでは、弱小勢力で何百回もプレイしたものでした。
今回はそんな弱小勢力の一人・橋瑁(きょうぼう 喬瑁)を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。
橋瑁のプロフィール
橋瑁(きょう ぼう。Qiáo Mào)は生年不詳。豫州梁国睢陽県(河南省商丘市睢陽区)の出身で、字は元偉(げんい)と伝わります。
美女として知られた二喬(孫策に嫁いだ姉の大喬と、周瑜に嫁いだ妹の小喬)の父・橋玄の一族とされるものの、橋玄の次世代といことが伝わるのみで、その息子とは確定していません。
※文献によっては橋玄の息子で二喬の兄弟として紹介しているものもありましたが、続柄は明らかでないようです。
威厳と温情を兼ね備えた人格者として知られたそうで、兗州(えんしゅう)刺史や東郡太守を歴任。人々からは敬慕の念を寄せられたことでしょう。
十常侍の乱と董卓の横暴
そんな中平6年(189年)、朝廷では大将軍の何進(か しん。字は遂高)が、宦官の十常侍(じゅうじょうじ)と対立。何進は十常侍を牽制するため、各地の諸侯に上洛を命じました。
橋瑁はこれに応じ、軍を率いて成皋(せいこう)の地に駐屯させ、都の様子をうかがいます。
そんなことをしている内に、朝廷では何進が十常侍によって暗殺されてしまいました。
すると諸侯の一人として上洛していた董卓(字は仲穎)が、洛中へ突入して十常侍を粛清。そのまま政権を奪い取ってしまいます。
相国となった董卓は、靴を履いたまま帯剣で昇殿し、また小走りすることなく朝廷を闊歩しました。
(当時の朝廷では靴を脱いで上がるんですね。また小走りしなければならないというルールも面白いですね)
その程度ならまだ可愛い?少なくとも人民に被害はなさそうですが、董卓の横暴が朝廷だけにとどまるはずもありません。
洛陽中の富豪を襲撃して金品財宝を略奪したり、気まぐれで村祭りに乱入して人民を皆殺しにしてみたり……とりあえず悪役がやりそうなことは片っ端からやらかしました。
洛中でそんな惨劇が繰り広げられる中、機を見るに敏ならざる橋瑁は、手をこまねいて董卓の暴政に憤るばかり。
しかしこのまま反抗すれば潰されてしまう。かと言って董卓に取り入る訳にもいきません。
橋瑁は一度兵を引き揚げ、機をうかがうこととしました。
董卓討伐の檄文を発する
一人の力では勝てないなら、力を合わせて逆賊・董卓を討つべし。
橋瑁は三公(司徒・太尉・司空)の公文書を偽造して、董卓討伐の檄文を発します。
『三国志演義』ではこの檄文が曹操(そう そう。字は孟徳)によって発せられたことになっていますが、実際は橋瑁によって発せられたようです。
果たして初平元年(190年)、檄文に応じて挙兵した諸侯たちは以下の通り。もちろん橋瑁も発起人として逸早く挙兵しました。
また呼びかけ人の一人として、張超の部下である臧洪(ぞう こう)も奔走したそうです。
果たして結集した反董卓連合軍の顔ぶれがこちら。
山陽太守・袁遺(えん い)
後将軍・袁術(えん じゅつ)
渤海太守・袁紹(えん しょう)
河内太守・王匡(おう きょう)
冀州牧・韓馥(かん ふく)
陳国相・許瑒(きょ よう)
東郡太守・橋瑁
豫州刺史・孔伷(こう ゆう)
西河太守・崔鈞(さい きん)
長沙太守・孫堅(そん けん)
広陵太守・張超(ちょう ちょう)
陳留太守・張邈(ちょう ばく)
済北国相・鮑信(ほう しん)
潁川太守・李旻(り びん)
兗州刺史・劉岱(りゅう たい)
陳王・劉寵(りゅう ちょう)
荊州刺史・劉表(りゅう ひょう)
……などなど。
錚々たる顔ぶれのほか、曹操や劉備(りゅう び。字は玄徳)らが、義兵を率いてめいめい加勢しています。
彼らは必ずしも全員が一堂に会したわけではなく、それぞれの場所でそれぞれに戦いました。
せっかく兵を挙げたものの……
名門の袁紹を盟主に担ぎ上げ、総勢数十万を擁したという反董卓連合軍。しかし董卓の強勢を恐れてなかなか攻めかかろうとしません。
曹操・張邈・鮑信らは早く董卓を攻めるよう進言するものの、諸侯らは連日酒宴を開くばかりで虚しく日々を費やすばかり。
橋瑁も積極的には撃って出いないようです。
董卓討伐を呼びかけたはよいものの、いざ仲間が集まったら、それだけで安心してしまったのでしょうか。
そんな諸侯にしびれを切らした曹操らは、少数で董卓に攻めかかるも敗退。生命からがら逃げ延びて、捲土重来を期するのでした。
「ホラ見たことか、機を見ることなく血気に逸り、軽挙妄動に走るからだ」……果たして諸侯が曹操の惨敗を笑ったかどうか。
今も昔も、失敗した挑戦者を何もしない連中が訳知り顔で笑う構図は、1800年の歳月を経てもあまり変わらないようです。
ほか、孫堅なども各所で戦ってはいたものの、戦局に大きな影響を与えるものではありませんでした。
ほぼ足踏み状態の中、数十万とも言われる軍勢が留まっていれば、それだけで莫大な食糧が消費されます。
やがて兵糧が尽きた反董卓連合軍は空中分解。それぞれの所領やねぐらへ三々五々に帰っていきました。
もし諸侯が董卓を恐れず、力を合わせて戦っていたら、董卓政権をより早く打倒出来たかもしれないのに。これではただ酒宴のために何十万の軍勢が集まったようなものです。
(ほとんどの将兵らは、それに参加すらできませんでした)
せめて発起人の橋瑁には、曹操たちと一緒に奮闘して欲しかったと思います。
エピローグ
「やれやれ……」
せっかく諸侯を動員して挙兵してはみたものの、これといった成果もなく、本拠地へ戻ってきた橋瑁。
その後間もなく、反董卓連合軍として肩を並べていた劉岱によって殺されてしまいました。
『三国志演義』だと兵糧をめぐる争いが原因だそうですが、酒宴なんか開いている場合ではなかったのではないでしょうか。
時に初平元年(190年)、実にあっけない最期でした。
それにしても、董卓討伐の檄文を書いたのは曹操ではなく橋瑁だったのですね。
『三国志演義』だと曹操を引き立てるために、周りが愚鈍に描かれがちなので、やっぱりこのパターンだったかと思いました。
他にも曹操に功績?をとられてしまった人物がいないか、またの機会にご紹介させていただけたらと思います。
参考 : 『正史 三国志』
文 / 角田晶生(つのだ あきお) 校正 / 草の実堂編集部
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