真田幸村(信繁)とは
真田幸村(信繁)は、人気が高くとても有名な武将である。
前回に引き続き、今回は真田幸村の後半生を解説する。
第2次上田合戦
徳川秀忠にとっては重要なのは関ヶ原であり、真田攻めはあくまでも大事の前の小事、無視して関ヶ原に向かっても良かった。
しかし、信濃を通過した後に背後から攻撃される可能性もあり、完全に無視することも出来なかった。
また、この時の秀忠は21歳と若くこれが初陣であったこと、真田軍はたった3,000の兵であること、徳川は以前真田に敗れているため自分が上田城を落とせば父・家康に褒められて良い土産にもなると考えた。
秀忠軍は中山道を通って9月2日に小諸城に到着。翌日には秀忠軍に同行していた幸村の兄・信之と本多忠政が、使者として昌幸と会談して降伏を促した。
この時に昌幸は頭を丸めて降伏する旨を伝えた。秀忠は徳川家の汚名を自分の手で拭うことが出来たと大いに喜んだ。
しかし、これは昌幸の時間稼ぎであった。この間に上田城に兵糧や弾薬を運び入れ、上田城周辺には伏兵を忍ばせている。
翌日、翌々日になっても降伏の約束を守らない昌幸に秀忠は使者を出す。すると昌幸は「返答を延ばしていたのは籠城の準備のためだ、充分に支度が出来たので一合戦つかまろう」と宣戦布告をした。
これに秀忠は大激怒。秀忠の側近たち(本多正信や榊原康政)は「昌幸は侮れないから真田など無視して先へ」と説得したが、秀忠は9月5日に全軍に攻撃命令を下した。
これこそ昌幸の思うツボである。昌幸は上田城、幸村は北部の戸石城に入る。
秀忠軍の本隊は上田城を攻め、分隊を戸石城に差し向ける。分隊の大将には土地勘のある信之が任命された。
秀忠からすると信之は裏切るのでは?との思いもあった。それを試す為にも信之に攻めさせたが、幸村は「兄と戦いたくはない」と信之が着く頃には上田城に撤退していた。
信之は「もぬけの殻」となった戸石城に入ったが、戸石城はかつて武田信玄さえも攻略に苦しんだ城であり、そこに簡単に信之が入ったことで徳川軍は逆に疑心暗鬼となり、信之を遠ざけるためにそのまま守備をさせた。
これで真田同士が戦うことが無くなり、昌幸・幸村親子は思う存分戦うことが出来るようになった。
9月6日、秀忠は上田城を包囲する。9月8日、家臣・牧野康成に田畑の稲を刈り取らせて真田軍が城から討って出るのを誘った。
真田軍は徳川軍を挑発するために、昌幸と幸村が自ら50騎を率いて城外に出て偵察に出た。
いきなり総大将が現れて徳川軍は驚いた。これを機と見た牧野康成は秀忠の戦闘禁止の命を破って攻撃を開始。それに本多忠政も加わり徳川軍は昌幸らを追って上田城に接近し大手門まで迫った。
すると大手門が開き真田軍の鉄砲隊が一斉に射撃を開始。
戦闘開始を見た徳川軍の大軍は次から次へと大手門めがけて急いだために、射撃を受けた先鋒部隊が退却しようにも後ろから功を焦る兵が押し寄せて来たのだ。
進むことも退却することも出来ないところに上田城付近に潜んでいた伏兵が襲いかかり、上田城からも真田軍が討って出て徳川軍を蹴散らした。
前の晩に密かに上田城を出ていた幸村の200の兵は伊勢崎城(虚空蔵山)から討って出た伏兵と共に、手薄になった秀忠の本陣を襲撃する。
挟み撃ちとなった秀忠は家臣から馬を与えられて小諸城に逃亡した。
第1次上田合戦と同様に、真田軍は神川の上流を堰き止めていたのを切って神川は大増水させた。後方に控えていた徳川の援軍は川を渡ることが出来ずに立ち往生となる。
すると真田軍は上田城で籠城を開始。城には多くの兵糧と弾薬が備蓄してあった。
秀忠のもとに家康からの書状が届く、その書状は「9月9日までに美濃・赤坂に着陣すべし」という内容で、秀忠は松代城に森忠政を抑えとして残し、9月9日に急いで進軍を開始した。
徳川軍は2度に渡って真田軍に敗れたことになり、秀忠は悪天候もあり関ヶ原の戦いの9月15日に間に合わず、4日後の9月19日に到着。
昌幸・幸村による秀忠軍の遅参は成功した。
残った森忠政の軍に幸村は夜討ち・朝駆けを行い奮闘したが、なんと関ヶ原の戦いは小早川秀秋らの裏切りもあり、たった1日で家康の東軍の勝利に終わってしまった。
幽閉生活
第2次上田合戦に勝利した真田だったが、肝心の関ヶ原の戦いに西軍が負けてしまったため、昌幸・幸村親子は敗軍の将となってしまった。2度も徳川のメンツを潰された家康は真田親子の所領没収と死罪を言い渡した。
しかし、家康は「真田だけは絶対に許せん」と譲らない、信之は「自分の命と父・弟の命を引き換えに」と訴えた。
本多忠勝に至っては「ならば、殿(家康)と一戦つかまつる」とまで言って擁護した。
信之はこれ以前「信幸」であった名を、父・昌幸と決別するために真田家の通字である「幸」を捨て「信之」と改めた。
その甲斐あってか家康はあくまでも特例として真田親子の命を助け、真田親子は高野山の蓮華定院に送られた。
昌幸は上田城から連行される際に「悔しい、家康をこのようにしてやりたかった」と涙ながらに語ったという。
家臣の同行も一部認められ、昌幸には16人の家臣が随行。昌幸の妻・山手殿は信之のもとに住み、幸村には妻・竹林院の随行が許された。
幸村が妻の竹林院を伴ったために、女人禁制の高野山では不便ということで高野山麓の九度山で蟄居となり、真田親子は善名称院、通称「真田庵」で山手殿からの仕送りや紀伊藩からの年50石の合力に頼る、細々とした貧しい生活を送った。
お金に困窮した幸村の妻・竹林院は「真田紐」を考案。それを家臣たちに行商させて金を稼いだという。
この時、随行をした16人の家臣、猿飛佐助・霧隠才蔵・三好清海入道・三好伊三入道・穴山小助・由利鎌之介・海野六郎・根津甚八・望月六郎・筧十蔵が真田十勇士のモデルとされている。※架空説と実在説があり、作品によっては名前が変わる場合や、登場人物が違う場合もある。
後年、「真田三代記」という講談が人気となり、それをもとに忍者の猿飛佐助・霧隠才蔵、元は敵だった家臣・由利鎌之助などに人気の家臣・武将が加わり、真田十勇士として作品化されるに至った。
九度山での幽閉生活は多少の監視はあったものの、部屋から出るなという厳しいものではなく、日頃は狩りや囲碁をして過ごし、深夜まで兵書を読み交わし、近隣の郷士らと兵術や鉄砲の鍛錬も許され、人の出入りも自由であったという。九度山では、幸村の長男・大助、次男・大八、娘3人も生まれている。
昌幸は慶長16年(1611年)に死去。正式な葬儀は行われず昌幸に随行した家臣の大部分は、一周忌が済むと信之のもとに帰参したという。
幸村のもとに残った家臣は高梨内記など2~3名しかいなかったとされている。慶長17年(1612年)に幸村は出家して「伝心月叟」と名乗り、来るべき日に備えて兵法書を読み、武術の鍛錬を積んでいた。
なお、昌幸は亡くなる前に徳川と豊臣の間で大きな戦があると予測して、幸村に徳川に勝てる作戦を授けていたという。
その際、すぐに行動に移せるように、忠臣150人を九度山近くの村に住まわせていたとも考えられている。
大坂城入城
慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開き、その2年後に秀忠に将軍職を譲る。
これにより将軍職は徳川家が世襲していくことを天下に示す形となった。
大坂城の淀殿は豊臣秀頼による天下を夢見ていたが、秀忠が将軍に就任したことで徳川に敵意を抱くようになる。しかし頼りにしていた豊臣恩顧の浅野長政・堀尾吉春・加藤清正・池田輝政・浅野幸長・前田利長らが亡くなってしまう。
慶長19年(1614年)には、家康が方広寺鐘銘事件で豊臣家に難癖をつけ、豊臣家内部では主戦派が主流となり両者の対決は避けられなくなった。
しかし、豊臣家の兵は3万しかおらず、淀殿と秀頼は豊臣恩顧の諸大名や徳川に不満を持つ全国の浪人に対し、大坂城への参集を呼びかけた。
だが、諸大名は誰一人として豊臣家に味方する者はおらず、集まったのは浪人衆だけであったがその数は10万を超えたという。
九度山にいた幸村にも豊臣家の使者が訪れ「徳川を滅ぼすために力を貸して頂きたい、徳川を滅ぼした後には50万石を約束する」と豊臣家から当座の支度金として黄金200枚・銀30貫が贈られた。
幸村は「ついに武士として最高の死に場所を得た」と感極まったという。
幸村は上田領にいる昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、10月9日に家族と共に九度山を脱出した。
14年に及んだ蟄居生活で幸村は周辺の農民たちと親しくなっていた。彼らは幸村の監視役の紀州の浅野長晟に、3時間前に逃亡したことを3日前と嘘をついて、追うのを諦めさせた。(浅野長晟がわざと逃がしたという説もある)
幸村は長男・大助と共に大坂城に入城。分散させていた旧臣や上田からの旧臣約100人も大坂城に参じた。
家康は諸大名に大坂攻めを命じた。京都所司代の板倉勝重は「浪人が多数大坂城に入り真田も入った」と家康に報告した。
父・昌幸と兄・信之と比べて幸村はこの時点では無名に近かったという。家康は真田と聞いて「籠城したのは真田の親か子か?」と尋ね、子の幸村だと知ると胸を撫で下ろしたという。
大坂五人衆
大坂城に入った幸村は長曾我部盛親・後藤又兵衛(後藤基次)・毛利勝永・明石全登と共に「大坂五人衆」と呼ばれ、浪人衆の中心人物となった。
軍議では幸村らが主張した「出撃」と豊臣家の重臣が主張する「籠城」で意見が割れた。
豊臣家の重臣たちは大坂城に絶対の自信を持ち、長期的に籠城に持ち込むと冬になり敵は疲弊し、寝返る諸大名が出てくると主張した。
幸村たち「大坂五人衆」は籠城策が有利なのは援軍を待つ時だけで、先制攻撃を仕掛け伏見城・宇治川・京都・大和・茨木・大津を抑えて畿内を統一、遠征で疲弊した徳川勢を迎え撃つ野戦を主張した。
しかし結果は豊臣家の(大野治長らの主張)「味方になる大名がきっと現れる」という意向で「籠城策」と決まった。
真田丸
籠城策に決まると、幸村は大坂城の南側の防御に弱点があると指摘し、そこに砦を築くことを願い出た。
この時、幸村は兄・信之が徳川方であるため裏切りを警戒され、豊臣家の重臣たちにあまり信用されていなかったとされている。
だが、後藤又兵衛らが幸村の後押しをしたため意見が通り、砦の「真田丸」を築いた。
真田丸は背後を大坂城の堀で防御、三方を空堀(水の無い堀)と三重の柵で囲み、矢倉・銃座・小曲輪を備え、大坂城への抜け穴を持つ強固な砦であった。
幸村は大坂城の外に飛び出た真田丸が総攻撃の的となることを覚悟し、兵たちの団結力を高めるために真田軍の鎧を赤で統一した。(真田の赤備え)
そしてこの真田丸での戦い(大阪冬の陣)において、当時無名だった幸村の名が天下に知られることとなる。
次回は大阪冬の陣、そして家康を自害寸前まで追い詰めた幸村の最後の戦い、大阪夏の陣について解説する。
この記事へのコメントはありません。