お船の方とは
お船の方(おせんのかた)とは、直江兼続(なおえかねつぐ)の正室である。
直江兼続は上杉景勝の最側近で、豊臣秀吉が自分の家臣にと懇願したほどの名将として知られている。
お船の方は長尾家・上杉家の重臣として仕えた直江景綱の娘だったが、父・景綱には世継ぎとなる男子がいなかった。そこで長尾景孝をお船の方の婿養子に迎え、景孝は直江信綱に名を改めた。(※但し長尾景孝は高齢だったため、景孝の息子や関係者が婿養子となったという説もある)
しかし、夫となった信綱が春日山城内でトラブルに巻き込まれて殺害されてしまい、直江家はまた断絶の危機を迎えた。
上杉家の家督争い「御館の乱」の終息後、当主となった上杉景勝が自分の最側近である樋口兼続にお船の方の婿となるように命じ、兼続は直江家を継いで直江兼続となったのである。
兼続は生涯側室を持つことはなかったという。しかも兼続の兜には「愛」の文字があった。
お船の方は、兼続を生涯支え続け、景勝の正室・菊姫も支え、兼続が亡くなると景勝の息子・定勝の母親代わりとなり、米沢藩の政治にも参与したとても賢い女性であったという。
今回は直江兼続をサポートし続けた賢い正室・お船の方の生涯について掘り下げていきたい。
出自
お船の方は、弘治3年(1557年)長尾景虎(後の上杉謙信)の重臣で越後国与板城主・直江景綱の娘として生まれた。
前述したように父・景綱に男子がなかったことから婿養子を迎え、婿養子は直江信綱と名を改めて直江家を継いだ。
しかし、天正9年(1581年)9月9日、河田長親の遺領を巡って毛利秀広と山崎秀仙が争いを起こし、信綱はそれに巻き込まれて毛利秀広に殺されてしまったのである。
そこで、当主・上杉景勝の命で、小姓から最側近となっていた樋口兼続がお船の方の婿養子として直江家の跡を継ぎ、与板城主・直江兼続となった。
再婚したお船の方はこの時25歳で、兼続は22歳であった。
兼続と菊姫を支える
上杉家の家督争い「御館の乱」で、武田勝頼の援軍を得ることになった上杉景勝は、甲越同盟の関係強化のために勝頼の妹(信玄の五女)・菊姫を正室として娶ったが、その3年後に武田家は滅亡してしまう。
武田家は滅亡してしまったことで、菊姫には後ろ盾が無くなってしまった。
子宝にも恵まれていなかった菊姫は、景勝から離縁されても仕方がなかった。
しかし景勝と菊姫は大変仲が良く、景勝は菊姫を離縁せずにそのまま正室とした。
そんな菊姫を不憫に思ったお船の方は、菊姫を支え続けたという。
お船の方が32歳の時に、夫・兼続との間に松姫(於松)が生まれ、文禄3年(1594年)に直江家待望の男子・竹松丸が生まれた。
しかし竹松丸は、生まれながらに病弱で両目を患っていたという。
その後、女の子(於梅)が生まれたが、早世している。
秀吉から「家臣になれ」と誘われた直江兼続
当時、上杉家は豊臣秀吉に臣従していた。
秀吉は兼続を大変気に入っており「家臣になれ」と誘ってきた。しかし兼続は「自分の主は景勝1人だけである」と誘いを断った。それでも秀吉から6万石を与えられることとなる。
その後、秀吉は臣従した1万石以上の諸大名の妻を、人質として京都に住まわせることとした。
こうして菊姫が京都伏見の上杉屋敷に行くことになると、お船の方は自分の幼い子どもたちを越後に残し、菊姫と共に上洛して上杉屋敷で暮らすことを選んだ。
女好きで知られる秀吉が、武田信玄の娘である菊姫を狙った時に、自分がその代わりになるつもりだったという。
上洛後も2人は上杉屋敷でただ人質生活を送っていたわけではなかった。隣には前田利家の大きな屋敷があり、菊姫とお船の方は利家の正室・まつと交流を深めた。
また、まつと古くから交流があった秀吉の正室・北政所とも交流を持ったという。
上杉家が豊臣政権下で厚遇されたのは、こうした妻たちの交流による影響も大きかったのかもしれない。
会津征伐と関ヶ原の戦い
小田原征伐後、会津の蒲生家でお家騒動があり、景勝は越後から会津120万石に加増転封となった。
秀吉の死後、天下取りに動き出した徳川家康と石田三成の対立が勃発する。三成と親しかった兼続と景勝は、あけすけに天下を狙う家康に立腹していた。
会津に戻った景勝は、領国の整備と支城を改修し、新たな居城となる神指城の築城を兼続に命じた。
そして兼続は、国替えの際の引継ぎで本来半分残していかなければならない年貢を全て会津に持ち出した。
こうして新たに越後に移封された堀秀治は、年貢を持ち逃げされたことを家康に訴えたのだ。
家康は景勝に「上洛して城の改修等の謀反の疑いを晴らせと」命じたが、景勝と兼続はこれに従わず、さらに兼続は家康を激怒させる「直江状」を送った。
これに激怒した家康は、上杉家を征伐するために諸大名を率いて、会津征伐を行うために出陣したのである。
この時、京都にいた菊姫は妙心寺に匿われたが、危険な状況であった。
そこでお船の方は、諸大名の妻たちとのネットワークや情報を駆使して伏見屋敷を密かに脱出し、近江商人の手助けを得ながら命懸けで会津に戻り「菊姫は無事だ」と景勝に伝えたのである。
家康が会津に向かって進軍を開始した頃、石田三成が挙兵し、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった。
しかし関ヶ原の戦いはわずか半日で勝敗がつき、三成率いる西軍は敗れてしまったのである。
西軍が敗れたことで上杉家も家康に降伏し、会津120万石から4分の1の出羽国米沢30万石に大減移封となってしまった。
景勝と兼続は、自分たちの直轄地を縮小することで、家臣たちの減給を防いだ。
上杉家のために
その後、兼続とお船の方の娘・於松に婿養子の話が持ち上がった。
その相手は家康の腹心・本多正信の次男・政重であった。
この時、直江家には10歳になる竹松丸がいたが、「本多家と直江家が姻戚関係を結べば、主家である上杉家も安泰だろう」と判断し、政重を直江家の跡継ぎとして迎えることにしたのである。
この頃、菊姫は徳川家の人質として、京都の伏見屋敷に留め置かれていた。
跡継ぎがいなかった景勝は、公卿・四辻公遠の娘・桂岩院を側室として迎え、慶長8年(1603年)桂岩院は懐妊した。
しかしこの頃から、菊姫は病に伏せることになる。
すぐにでも京都に駆け付けたかったお船の方だが、桂岩院の世話をすることになり、菊姫の見舞いには行けなかった。
そして翌年の慶長9年(1604年)2月、菊姫はそのまま死去してしまったのである。
同年5月、桂岩院は景勝の嫡男となる玉丸(後の上杉定勝)を産んだ。
しかし桂岩院は産後の経過が悪く、玉丸を産んだ3か月後に死去してしまった。
こうして亡き桂岩院に代わって、お船の方と兼続が玉丸を養育することになったのである。
直江家の跡継ぎ問題
慶長10年(1605年)8月、婿養子を迎えるはずだった娘・於松が死去してしまう。
しかし養子縁組は継続され、慶長14年(1609年)兼続は弟・大国実頼の娘・阿虎を養女として政重に嫁がせた。
しかし政重はなんと、慶長16年(1611年)に上杉家を突然出奔して武蔵国岩槻に潜伏し、その後加賀の前田家に家老として迎えられてしまったのである。
仕方なく竹松丸が直江景明として兼続の継嗣となったが、もともと病弱であった景明は慶長20年(1615年)に病死した。
兼続の婿養子だった本多政重は出奔し、景明の誕生以前に養子であった本庄長房は加賀藩へ行ったために、直江家を継ぐ者はいなくなってしまったのである。
そして元和5年(1620年)12月19日、お船の方に看取られながら、ついに兼続も亡くなってしまった。
享年60であった。
これで直江家男子は断絶してしまい、娘と息子と夫を先に亡くしたお船の方は悲しみにくれたという。
兼続の死後
63歳で身内すべてを失ったお船の方は、剃髪して出家し「貞心尼(ていしんいん)」と号した。
その後、景勝の嫡男・定勝が元服すると、それを待っていたかのように元和9年(1623年)景勝が死去、享年69だった。
定勝のことを託されたお船の方は、最後の力を振り絞って定勝を後見し、上杉家の藩政にまで参与したという。
寛永14年(1637年)1月4日、お船の方は81歳で亡くなった。
兼続の死後、再び未亡人となったお船の方は養子を迎えなかったために、これで完全に直江宗家は断絶することになった。
おわりに
上杉定勝が米沢藩主となった時に、お船の方は定勝から化粧料3,000石と手明組40人を与えられたという。
母親代わりだったお船の方を定勝がどれほど慕っていたことが分かる話である。
景勝の正室・菊姫と共に人質となり、命懸けで会津に戻り、お家を断絶させても上杉家のために兼続と共に尽くしたお船の方は、とても賢い女性だったという。
何で今と思うけど、この人は2009年の大河ドラマ「天地人」で妻夫木聡演じる直江兼続の妻役だった常盤貴子が演じたのが「お船の方」なのですね、年上だったし再婚だからあの演技だったんだ!あれから14年も経った今、あの時武将の妻はあまり強気に出ないのに常盤貴子の演技は兼続を慕いながら強気に出ていた謎が今回の記事を読んで納得しました。
最初は展開が遅かった「どうする家康」は最近展開が早い、考えたらもう6月あと半年の間に天下人になる。
でも直江状や上杉討伐は絶対に欠かせない歴史上の史実で、お船の方の登場ももしかしてなのかな?