安土桃山時代

北の関ヶ原 『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』 わかりやすく解説

『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』

関ヶ原の戦いは、戦国時代において最も有名な戦いであろう。

しかし、この関ヶ原の戦いの陰に隠れて、北の地で大規模な合戦が行われていたのだ。
それが「北の関ヶ原」と呼ばれる、慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)であり、上杉軍 vs 最上・伊達連合軍の戦いである。

徳川方として有名な伊達政宗、そして豊臣方として有名な直江兼続らが関ヶ原の戦いに参戦できなかったのは、この戦いがあったからだ。

今回は、この戦を分かりやすく解説したい。

慶⾧出羽合戦(⾧谷堂城の戦い)の概要

『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』

画像 : 上杉軍の攻勢により落城した最上氏拠点 wiki c Tourisu-garin

まずは慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)の概要について簡単にまとめると、以下のようになる。

名称 : 慶⾧出羽合戦(⾧谷堂城の戦いはこの合戦に含まれている)
年月日 : 1600年(上杉軍出陣が1600年9月8日なのでそこがスタートという説もある)
場所 : 出羽国(山形県)
交戦勢力 : 上杉軍(西軍)vs 最上・伊達連合軍(東軍)
主な参戦武将 :
○上杉軍(西軍): 直江兼続・前田利益(前田慶次)・水原親憲・色部光⾧・春日元忠・小野寺義道・志駄義秀
○最上・伊達連合軍(東軍): 最上義光・留守政景・志村光安・鮭延秀綱・江口光清
軍団規模 : 上杉軍(西軍)2万8千 vs 最上・伊達連合軍(東軍)1万
結果 : 最上・伊達連合の勝利、上杉軍の撤退及び最上氏の旧領回復

関ヶ原の戦いは大規模な合戦だったが、9月15日に始まってわずか1日で終わってしまった。

この関ヶ原の戦いに連動して引き起こされた慶⾧出羽合戦は、上杉軍が出陣した1600年9月8日をスタートと考えると、最上義光が旧領を取り戻した1601年3月まで続いたので、約半年も続く合戦となった。

慶⾧出羽合戦を時系列で整理する

『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』

画像 : 退却する直江兼続を追撃する最上義光 public domain

今回はわかりやすく、戦いが起こった経緯から時系列でまとめていこう。

1590年 : 豊臣秀吉による奥州仕置惣無事令(大名間の私闘を禁じた法令)によって、上杉家と最上家は戦闘中だったが中止せざるを得なくなり、互いに強い遺恨が残ったままとなる。

1598年 : 上杉景勝が移封されて会津・置賜・信夫・伊達・安達などの領地を得る。その結果、最上氏は上杉家の新領地と庄内地方を遮断する形で領地を持つ状態となり、ますます敵対関係は深まり、いつ戦が始まってもおかしくない状態となる。

1600年まで : 直江兼続が、飛び地になっている場所をつなぐように秘密裏に軍道を作る。(朝日軍道)

1600年7月 : 徳川家康は上杉征伐を予定していたが、石田三成の挙兵を知って計画が頓挫し、上杉征伐のために集めていた南部利直秋田実季といった諸将を帰国させる。

7月から8月 : 事態の急転により、東北諸国に帰国する諸将たちと最上義光が起請文を交わし、共に徳川側につくこととなる。

9月1日 : 徳川軍が江戸より出陣したことで江戸の兵力や武将が一気に減る。これで上杉軍の重石が消え、正対する敵は最上軍のみとなる。

『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』

画像 : 最上義光。戸部正直「長谷堂合戦図屏風(部分)」より。

9月上旬 : 上杉家記編纂所にある『上杉家記』によれば、最上義光は上杉方に嫡子を人質に出して恭順するそぶりを見せて、山形への出兵中止を要請している。しかし、これはフェイクで上杉領の庄内を挟み撃ちにするための時間稼ぎであった。

9月8日 : 上杉軍が最上領へ侵攻開始。指揮は直江兼続で、総兵力は2万5000人。(慶⾧出羽合戦スタート)

9月9日 : 上杉軍は、萩野中山口(狐越街道)・小滝口・大瀬口(白鷹町大瀬)・栃窪口(白鷹町栃窪)・掛入石仲中山口に分けて進軍。

9月12日 : 上杉軍は、最上軍の前線基地である畑谷城を包囲、その日のうちに落城させる。最上義光は城を守っていた城将・江口光清に撤退命令を出したが、光清はこれを拒否し玉砕覚悟で戦い抜いて全滅した。

9月13日 : 上杉軍は菅沢山に陣を敷き、長谷堂城を包囲する。

『慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)』

画像 : 直江兼続隊の想定進路 wiki c Tourisu-garin

9月15日 : 上杉軍による⾧谷堂城攻めが開始。(⾧谷堂の戦いスタート)
戦力差は上杉軍18000 vs 最上軍1000と絶望的だったが、守将・志村光安らが奮戦して耐える。
しかし、上杉軍の別働隊が北の寒河江城や白岩城を落とす。

同日、最上義光は伊達政宗に援軍派遣依頼を出したが、政宗の参謀役でもある片倉景綱は「両家を争わせて疲弊させたほうが良い」と助言。
しかし、義光の妹で政宗の母でもある保春院に再三催促されたのもあって、政宗は最終的には援軍要請を受け、叔父・留守政景を救援に派遣する。

9月17日 : 上杉軍の別働隊が⾧谷堂城より南の上山城に攻め入るが、城主・里見民部による奇襲や防戦で大打撃を負う。⾧谷堂城の戦いも膠着し、それを嫌った直江兼続が刈田狼藉を行うなど挑発したが効かなかった。

9月18日 : 上杉軍別働隊が谷地城・⾧崎城・山野辺城などを落城させる。

9月21日 : 伊達家の援軍である留守政景隊3千の軍勢が、山形城の東方に着陣する。

9月24日 : 留守政景隊3千の軍勢が、上杉軍本陣から約2km北東に離れた須川河岸の沼木に布陣する。

9月25日 : 最上義光が出陣し、稲荷塚に布陣する。

9月29日 : 上杉軍は総攻撃を敢行するが、⾧谷堂城を守る志村光安を筆頭に最上軍が奮戦する。
上杉軍が苦戦する中で「関ヶ原の戦いで西軍が敗れた」という情報が入る。この情報を知った直江兼続は切腹を考えるが、前田慶次にいさめられ、本格的な撤退戦に入る。(⾧谷堂の戦い終了)

画像 : 落合芳幾「太平記拾遺 前田慶次郎利丈」

9月30日 : 最上・伊達連合軍も、徳川方の勝利を聞いて追撃を開始する。

10月1日 : 上杉軍は本格的な撤退を開始し、最上・伊達連合軍が追う形になる。

ここでは「最上義光の兜に銃弾が当たった」「直江兼続が殿になった」など様々な逸話が誕生している。上杉軍の別働隊も撤退開始しており、最上・伊達連合軍が旧領を取り戻し始める。

画像 : 上杉軍の撤退路 wiki c Tourisu-garin

10月3日 : 上杉軍が荒砥へ退却する。

10月4日 : 上杉軍が米沢城へ帰還する。(本格的な上杉軍 vs 最上・伊達連合軍の戦いは終わる)

10月11日 : 撤退から取り残された谷地城を、最上・伊達連合軍が取り戻す。

1600年10月から1601年3月まで : 最上軍が旧領を回復するために攻勢を仕掛け続ける。

1601年3月 : 最上軍は酒田城を攻略し、奥州仕置などで失った領地を全て取り戻す。(慶⾧出羽合戦が完全に終了する)

最後に

慶⾧出羽合戦は、関ヶ原の戦いが始まった9月15日に始まり、⾧谷堂城を中心に最上・伊達連合軍がひたすら凌ぐという戦いであった。

前半は、とにかく上杉軍が押し込んで最上・伊達連合軍が耐える構図だったが、関ヶ原の戦いで西軍が敗北したことにより状況が一転したことが分かる。

関ヶ原の戦いよりも激しい戦だったと言えるだろう。

参考 : 『最上義光物語』『上杉家御年譜』他

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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