織田信長は、いつの時代も英雄として描かれ続けてきた。
嫡男である信忠は無能扱いをされていた時期もあったが、近年では後継者としてふさわしい人物だったと評価を上げている。
しかし、信長の次男(三男という説も)信雄は、宣教師・ルイス・フロイスからも「知恵が劣る」と評され、現在も愚将、バカ殿的な扱いである。
今回は、そんな織田信雄について掘り下げていきたい。
織田信雄の概要
まず、織田信雄についての概要を以下にまとめる。
人名:織田 信雄(おだ のぶかつ/のぶお)
幼名:茶筅丸
別名:北畠具豊→信意→信雄→信雄→織田信雄
官位:従五位下侍従、正五位下左近衛権中将、従四位下、正三位権中納言、従二位、正二位、内大臣
主君:織田信長、信忠、秀信→豊臣秀吉、秀頼→浪人→秀頼→徳川家康、秀忠
出生:1558年
没年:1630年6月10日
父親:織田信長
母親:生駒殿(吉乃)
義父:北畠具教または北畠具房
配偶者:千代御前(雪姫)(北畠具教の娘)
継室:木造具政の娘
側室:津田長利の娘、久保三右衛門の娘、小玉氏など
兄弟:信忠、神戸信孝、徳姫、羽柴秀勝、津田勝長、信秀、信高、信吉、信貞、信好、長次、信正他
子供:秀雄、加爾、高雄、小姫(豊臣秀吉養女、徳川秀忠正室)、信良、高長、信為、良雄、長雄、女(佐々一義室)、玉雄院(土方雄氏室)、女(生駒政勝室)、女(生駒直勝室)
主な参戦:第三次長島攻め、長篠の戦い、有岡城の戦い、第一次天正伊賀の乱など
関わりの深かった人物:織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、北畠具教
信長の野望 新生PK:統率37、武力41、知力29、政治59、総合順位2201人中2010位
名前についてだが、読み方が「のぶかつ」と「のぶお」の2つの通説があり、どちらも正解という状態になっている。
織田信雄の人生
織田信雄は、江戸時代となった1630年まで生き延びている。
しかし、一武将という観点で見るとやはりマイナス点が目立つ。
なぜ「愚将」扱いされてしまったのか、その人生を年表で簡単に追いかけていこう。
いくつか注目してもらいたい点もあるため、その場所にはポイントを付けさせていただく。
生誕から亡くなるまでを追いかけるため、長くなるがご容赦願いたい。
1558年:生駒屋敷で織田信長の次男として産まれる、幼名は茶筅丸。
1569年:大河内城の戦い(織田vs北畠)が勃発し、信長が攻めあぐねた結果和睦となった。その条件として、信雄は伊勢北畠氏の養嗣子となり北畠性になる。
1571年:北畠具教の娘である千代御前(雪姫)と結婚する。
1572年:元服して北畠具豊を名乗る。
1573年:第二次長島攻めにて大湊の惣に船を出す命令を受けたが、住民に一向一揆支持者が多く、失敗する。
1575年:長篠の戦いに参戦、越前一向一揆討伐にも参戦する。
1576年:北畠一族の粛清により義父を含めた北畠家が滅亡する。妻の千代御前も父と兄弟が夫によって謀殺された事を知り自害する。
1577年:雑賀攻めに従軍する。
1578年:石山本願寺戦、第二次木津川口の戦い、有岡城の戦いに参戦する。
1579年:信長に無断で伊賀国に攻め入り惨敗する。(第一次天正伊賀の乱)、信長は信雄に激怒し絶縁一歩手前までいく。(絶縁はされなかったが、この時期からしばらく情報が途絶えており長い期間謹慎している)←ポイント①
1581年:第二次天正伊賀の乱に参戦する。
1582年6月2日:本能寺の変が発生、信雄は居城である伊勢松島城にいたが弔い合戦はできなかった。
1582年6月14日:安土城焼失、『耶蘇年報』では、この時期の安土城消失の原因は信雄にあるとされている。
1582年6月27日:清洲会議が行われ、信雄と信孝と信忠の遺児・三法師で家督相続争いになる。信雄は尾張一国を与えられただけだった。(最終的には尾張・伊賀・南伊勢の約100万石を知行とした。)←ポイント②
1582年9月:徳川家康に陣中見舞いを送るなど、やり取りをする。
1582年10月:清洲会議では浮いた立場だったが、信孝と柴田勝家が近づいた結果、秀吉と組むことになる。
1582年12月:秀吉が三法師を奪還することを名目に信雄を立てて挙兵する。このタイミングで北畠の残党が蜂起し、一揆を含めた騒動が発生するが信雄によって鎮圧される。
1583年1月:信雄と家康が会談した後、三法師の後見役として安土に入る。この時はまだ信雄が織田家の後継者という立場だった。
1583年2月:本格的に勝家と秀吉の戦いが始まる、この時も信雄はいろいろと家康とやり取りをしている。
1583年4月:賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉 vs 柴田勝家)で、信雄が与する秀吉が勝利。
1583年5月:信雄は、信孝の籠もる岐阜城を包囲し、最終的には自害させる。その後、信雄が織田家の正式な後継者となる。しかし、秀吉にとって用済みとなった信雄は傀儡状態となる。 ←ポイント③
1584年1月:信雄は秀吉から徐々に邪魔者扱いされ、正月にトラブルが発生してついに敵対する。
1584年2月:秀吉と敵対したことで、昔からいろいろとやり取りをしていた家康と同盟する。
1584年3月:信雄は秀吉の策略にはまり、一番頼みとする股肱の老臣・津川雄光、岡田重孝・浅井長時を斬ってしまう。その結果、秀吉と本格的に敵対関係となり、小牧・長久手の戦いが勃発する。信雄はこの戦いではそれなりに武功を挙げている。
1584年5月~7月:信雄も参戦した蟹江城合戦では、秀吉と家康が激しくやり合い、どちらかというと秀吉側が不利になる。
1584年8月:秀吉は、このまま戦っても勝ち目が薄いことを悟り、家康との調停を模索するようになる。
1584年10月:秀吉がいったん大坂に戻る。これを見て家康も守備を残して岡崎城に帰る、そして信雄も長島城に帰る。この家康側の動きに気がついた秀吉は、信雄単独ならば勝てると判断して動き出す。その動きに気がついた信雄も家康側に援軍を頼むが、最終的に秀吉と信雄で和睦が成立する。ただし、この和睦は家康と協議することなく信雄の独断で勝手に行われたものだった。 ←ポイント④
1584年11月:秀吉は信雄を「三法師の名代」から「正式な織田家の当主」という形で迎え入れて正式に和睦が成立する。その結果、家康は大義名分を失い岡崎城に引き上げる。
1584年12月 : 秀吉と和睦した信雄に対して、佐々成政は「秀吉のことだから姦計を使ってくるに違いない。和睦などもってのほかである」と何度も注意したが、信雄は聞き入れなかった。
1585年2月:信雄は入京して権大納言に任じられ正三位になる。しかし、秀吉がその後、正二位内大臣となる。その結果、信雄は織田家当主のまま秀吉に臣従する形となった。
1585年~1586年:信雄は家康に恩義があったため、なんとか家康と秀吉が和睦できないかと模索して動き続ける。
1586年9月26日:信雄の努力もあってか、ついに家康が秀吉の元に従う形になり、秀吉の天下が確定する。
1587年:九州の役(秀吉による九州攻略)があったが、信雄は代将を送るだけで出陣せず。
1590年:小田原征伐(秀吉による北条氏攻め)では、大将格として出陣する。
1590年7月:関東の地を得た秀吉は大胆な領地替えを実行する。家康は関東に移封となり、信雄は家康の旧領である駿遠三甲信5ヵ国に移封となる予定だったが、信雄は「伊勢と尾張から動きたくない」とこれを拒否した。その結果、秀吉を怒らせてまさかの下野国那須烏山に追放処分となり、最終的に秋田まで飛ばされる。 ←ポイント⑤
1591年2月:家康の尽力によって追放された信雄が許される。その後も家康とは度々やり取りをしている。
1591年5月:伊予道後の石手寺に入って出家し常真(じょうしん)と号する。※以降、常真と記述する。
1592年~1600年:秀吉の御咄衆(雑談相手や書物の講釈などをする)に加えられる。
1600年:秀吉の死後、関ヶ原の戦いが勃発し、最初は親子で西軍に与する。しかし、家中の反対や本人の決断があやふやな状態であり、結局どっちつかずのまま戦が終わる。 ←ポイント⑥
1600年10月以降:関ヶ原の戦後、常真は改易されて失領し浪人になる、以降は大坂城下で隠遁生活となる。
1614年:大坂の陣が近づくと豊臣から距離を取り始める。家康が逃がす手はずを整えるとそれに乗り、脱出に成功する。そして、家康と内通することで知行地を給付してもらう約束をする。 ←ポイント⑦
1615年:大坂の陣後、家康から約束通り大和国宇陀郡などの所領を与えられる。その後は京都北野第で茶や鷹狩りなどで悠々自適に過ごす。
1630年:京都北野邸で亡くなる、享年73。
気になるポイントはいくつかある。
まず、ポイント①の天正伊賀の乱では大失態を演じてしまい、信長から絶縁されそうになっている。
多くの戦に参加はしているのが、信雄が大活躍したという話は少なく、こういった失敗談が多いのである。
次に、ポイント②の清洲会議での扱いも気になる。
信長の次男なのだから後継者筆頭となっても不思議ではなかったが、功績がなかったためか結局蚊帳の外のような扱いとなっている。
織田家の正式な後継者となったポイント③や、小牧・長久手の戦いで独断で秀吉と和睦したポイント④においても、秀吉の手のひらで踊らされているようである。
結局、ポイント⑤では秋田に追放され、家康の尽力でなんとか戻る。
ポイント⑥の関ヶ原でのあやふやな立場も、情勢を読む力や判断力のなさが垣間見える。
ポイント⑦も、実質的に家康が信雄を救出している。
こうして見ると、家康によって何度救われたのかわからない人物である。
最後に
織田信雄は、武勲を挙げたと言えるような戦がほとんどなく、信長からも絶縁寸前とされた人物だ。
勝手に秀吉と和睦してしまったり、関ヶ原の戦いでは悩んでいる内に戦が終わるなど、客観的に見れば決断力に難があると言わざるを得ない。
一武将という観点で判断すれば、今川氏真と同じように落第だろう。
それでも信雄は、徳川幕府の元でも生き延びた数少ない織田家の人間である。
一武将として落第であっても、家康と仲が良く、ある意味では要領が良かったから生き延びた。
生命至上主義の現代の視点から見れば、満点をあげたくなってしまうような人物でもあるのだ。
参考 : 『黒川真道』他
バカ殿に見えて、実はしたたかに生き延びる世渡り上手な面はあったかも知れませんね。信長秀吉家康、同時代のレジェンドがヤバ過ぎただけなんだろうな