港区赤坂の「乃木坂」という地名は有名だ。
これは1912年に赤坂区議会がこの坂の名前を、ある人物の死を悼んで付けたものだ。
その人物とは、日露戦争でその名を馳せながら、悲劇的ともいえる最期を遂げた大日本帝国陸軍軍人であり学習院院長も務めた「乃木希典」という人物だ。
日露戦争や近代日本史に触れた人であれば馴染み深い人物だが、この記事では乃木希典について、改めてどのような人物であったのかを解説していこう。
目次
乃木希典とは?出生~西南戦争への従軍まで
乃木希典は嘉永2年(1849年)、長府藩上屋敷(現東京都港区六本木)に生まれた。
幼名は「無人(なきと)」といい、これは「夭折することがないように」との願いから付けられたものだったが、幼少時は臆病で泣き虫のため、「泣き人」などと言われたこともあったという。
元服後、乃木は第二次長州征討を経験、明治4年には大日本帝国陸軍少佐となる。
その後、秋月藩士の反乱である「秋月の乱」の平定では第14連隊を率いて参戦した。
乃木にとって後の人生を揺るがす決定的な出来事であったのは、明治10年に西郷隆盛が挙兵し、「日本最後の内戦」とも言われる西南戦争への従軍だった。
1877年2月22日、乃木の第14連隊は鹿児島を出発した薩軍と戦闘に入った。
乃木は応戦したが、戦力差や後続の敵を警戒し、後退することにした。
しかし、このとき、連隊旗手を務めていた部下が討たれ、薩軍に連隊旗を奪われるという失態を犯した。
軍旗は将兵の士気に関わるものであり、事実、連隊旗を奪った薩軍は大いに気勢を挙げたとも言われている。
連隊旗を失った乃木は責任を感じ切腹しようとするが、当時総指揮官であった山縣有朋はこれを不問に処した。
なお、それでも自害しようとする乃木を止めたのは、後日の日露戦争時、満州で合流することとなる満州軍総参謀長、児玉源太郎であった。
放蕩生活~留学を経験しての精神性の尊重へ
実直・清廉な軍人像で知られる乃木だが、当時の姿はその印象とは少し異なり、東京の料亭へ頻繁に出入りするなどまさに「放蕩生活」であったという。
そんな乃木に転機が訪れたのは明治20年から21年にかけてのドイツ帝国への留学であった。
このとき、乃木はドイツ陸軍の全貌を学び、なかでも軍紀の確保、つまり綱紀粛正や軍人教育、軍人としての徳義が非常に重要であるとの復命書を執筆している。
以降、乃木はこれまでの生活から一転、料亭通いもやめ、極端ともいえるほどの質素な生活を送るようになった。
この変化には様々な推測があるが、軍紀・綱紀粛正、軍人教育を主眼とした復命書を執筆した以上、自らそれに従うべく振る舞ったという見方もあれば、西南戦争での失態をうけて、自害を考えるまでに厭世家となっていた乃木が、自ら理想の軍人像を作り出し、それを実行していくことを生きがいとしたのではないかという見方もある。
いずれにしても、乃木の軍人精神は、この頃に形作られたといってよいだろう。
乃木第三軍が日露で果たした役割
日露戦争においては、乃木率いる第三軍は編成が遅れ、先発していた大山巌・児玉源太郎からやや遅れて戦地に赴いた。
乃木と第三軍に課せられた使命は、当時世界最強とも噂されたロシアのバルチック艦隊が、バルト海からアフリカ・インド洋を回航して旅順へ到達するより先に、旅順要塞を攻略して旅順艦隊を無力化し、さらにそこから北へ転進して第一軍と合流、ロシア陸軍主力との会戦となる奉天へ、一兵でも多く駆けつけることであった。
もし乃木が旅順を攻略するより前にバルチック艦隊が回航してきた場合、日本海軍はロシアの旅順艦隊・バルチック艦隊の両方を相手に戦闘を行わなければならない恐れがあった。
一方、もし乃木が旅順攻略に失敗し、奉天へ駆けつけられなかった場合、陸軍は南方からの補給路を断たれたうえ、南北に挟撃を受ける危険があった。
つまり、日露戦争の成否において乃木・第三軍の働きは陸海軍双方にとってまさに「かなめ」であったと評価できる。
世界が初めて経験した「近代要塞」の困難と乃木
旅順攻略戦や、203高地攻略戦の難しさについては、映画でも描かれておりよく知られている。
旅順要塞はいわゆる「永久要塞」とも評価される。
分厚いコンクリート(ベトン)で固められた要塞は当時の大砲では破壊が困難だった。
要塞内部を繋ぐ坑道は、一箇所が攻撃を受ければ他の堡塁から無傷の兵をすぐに補充する「血管」の役割を果たした。
当時の新型兵器であった機関銃は、これまで戦場の花形であった「突撃」をほぼ無力化し、死体の山を築いた。
なお、明治37年5月26日に行われた「南山の戦い」では、現地軍が死傷者4,000人の損害を報告したところ、大本営は桁を一つ(多く)間違えているのではと疑うほどだったというエピソードがある。
そうした頑強な要塞、逼迫する攻略猶予期間、増え続ける損害にも動揺することなく指揮を続けた乃木は、将兵から強い敬愛の念を抱かれることになった。
乃木の配下として戦った元軍人で作家の櫻井忠温は、「乃木のために死のうと思わない兵はいなかったが、それは乃木の風格によるものであり、乃木の手に抱かれて死にたいと思った」と述べている。
なお、映画などで語られる日露戦争の描写は、損害をいとわず突撃するのみのシーンがよく描かれ、それをもって乃木の指揮を力押しの無能であったとする批判もあるが、これは正確ではない。
実際には、乃木は要塞戦攻略に関する知見もあり、参謀であった伊地知幸介は砲術の専門家であった。
要塞攻略に莫大な損害が出ることが判明してからは、乃木・伊地知は塹壕戦を展開するなど、限られた時間の中で最大限の近代的な要塞攻略手段をとっている。
軍人として、教育者としての乃木の精神を表すエピソード
乃木は旅順要塞を降伏させた際、敵将であるステッセリと「水師営の会見」を開いた。
これには従軍記者が集まったが、乃木は通常降伏する側には許されない帯剣を許し、さらに会見写真は1枚しか撮らせなかった。
これは世界的に称賛をもって報道された。
立場は違えど、軍人として敵の名誉を守ることを優先したのである。一方、日露戦争を終え日本に戻った際には、多くの部下を死なせたことを悔い、時間を見つけては戦死者の遺族を訪問していたという。
また、日露戦争の戦役講演に招かれた際には、勧められても登壇することはなく、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と言ったきり、それ以上何も言えなくなってしまったという逸話もある。
なお、乃木は戦傷者に対しては、自らの年金を担保として義手を製作し配布している。
この義手は「乃木式義手」と呼ばれている。学習院院長であったころの乃木については、「よく冗談を飛ばしていた」「うちのおやじ」などと生徒から親しまれていた一面が見える。
乃木が決定打となった「奉天会戦」
旅順要塞を降伏させた乃木は、北進して奉天へ駆けつけ、奉天会戦へ参加した。
乃木第3軍は、西方からロシア軍へ回り込む役割であり、いわば別働隊であった。
しかし、ロシア軍総司令官のアレクセイ・クロパトキンは乃木第3軍を日本軍主力と誤認し、ロシア軍主力をぶつけてきた。
このとき、日本軍参謀総長の児玉源太郎は、乃木に対して、「乃木に猛進を伝えよ」(つまり、もっと進め)と伝えたが、乃木はこれを受けて、「言われるまでもない」とばかりに猛進し、旅順攻略の傷が癒えない第三軍も奮戦した。
クロパトキンはこの奮戦に、第3軍の戦力を2倍以上とさらに誤認し撤退した。
この段階では和平交渉は成立しなかったが、この後に行われた日本海海戦においてバルチック艦隊が壊滅すると、陸・海ともに損害が大きくなり、ロシア側はアメリカによる講和勧告を受け入れることとなったのである。
多くの人に惜しまれた乃木希典の最後
乃木は、日露戦争から帰還した折に、明治天皇に対して、自刃することで多数の死傷者を出した罪を償いたいと奏上している。
しかし明治天皇は、どうしても死ぬというのであれば、自分が世を去ってからにするよう説得したため、その時点では自刃することはなかった。
そして1912年(大正元年)、明治天皇の大喪の礼が行われた日の夜に、明治天皇と交わした言葉どおり、自宅で割腹し自刃している。
日露戦争の「英雄」を失った日本国民の多くは悲しみに暮れ、葬儀の際には、自宅から葬儀場までの沿道を20万人もの人々が埋め尽くしたといわれる。
幼年期に教育役を務めた乃木の死に、裕仁親王(後の昭和天皇)は、「ああ、残念なことである」と述べて涙を浮かべてため息をついたという。
また、海外でも乃木の死は大きく報じられ、日露戦争従軍記者による伝記や記事が掲載された。
遺書には西南戦争の際の連隊旗喪失の件も記されており、乃木の心に深い傷を残していたことがうかがえる。
その傷は、旅順攻略戦を勝利に導いたという戦果でさえも穴埋めをすることは叶わなかったのであろうか。
おわりに
乃木希典という人物には様々な評価がある。
旅順攻略戦についても、一部の歴史家からは膨大な損害を出したのは乃木の無能のためであるという論調もあった。
しかしながら、人類が歴史上初めて遭遇する近代的要塞攻略戦という、のちの第一次世界大戦に通じる戦闘を勝利に導いたという功績は、近年ではむしろ好意的に解釈されている。
また、乃木の能力のみならず、戦死・戦勝者への気配りや、教育者としての乃木の姿を探ると、乃木という人物が当時なぜ人々に好かれ、評価されていたのかという理由の一端が伺い知れる。
現代においては敬遠されがちな、泥臭い失敗を重ねたうえでの忍耐強さや忠誠心という点においては、乃木の生き様に学べる部分は多いだろう。
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