椅子に座った状態で足の力を抜き、木槌で膝をハンマーで軽く叩く、反射で膝が跳ねればよし、跳ねなければ…という検査がある。
これは「脚気」という病気の検査だ。
現代では脚気患者は非常に少ないが、かつての日本ではありふれた病気であり、かつ深刻な犠牲者数も出している病だった。
そしてそれは、命をかけて戦う軍人にとっても恐るべき病だった。
この「脚気」について、日本の歴史と照らし、脚気との戦いを解説しよう。
脚気とはどのような病気?
脚気という病気は、まず「浮腫(むくみ)」や足のしびれ・脱力などが起こる。
やがて症状が進行すると、神経炎・神経障害から心不全を起こすこともある。
症状を見るとさほど重病には見えないかもしれないが、適切な処置をとらなかった場合には死亡の恐れも高い。
膝を木槌などで叩く検査は、膝を叩くことで大腿四頭筋が収縮する末梢神経の「膝蓋腱反射」が正常に働くかという検査である。
脚気は何が原因で起こる?
脚気という病気の原因は複数あるが、共通している原因は「ビタミンB1(チアミン)」という栄養素の不足によって起こる病気だ。
ビタミンB1が欠乏するという状況は、現代ではジャンクフード中心の食生活や、アルコール依存症、慢性的な下痢や人工透析などが挙げられる。
食物の選択肢が増えた現代においては、ほとんどかかる人はいない。
しかし、流通や保存技術が未熟だったうえ、輸入品などの食品も珍しかったかつての日本では、ビタミンB1は欠乏しやすい栄養素であった。
日本の脚気史~明治日本まで
日本の食生活は、稲作が大陸から伝来して以来、米を中心としてきた。
日本での脚気については、奈良時代に成立した「日本書紀」にも同様の症状の記載があるほど、日本人と脚気とは古い関わりである。
しかし、本格的に脚気という病が広まったのは江戸時代であると言われる。
当時は「江戸患い」とも言われる病気で、名前のとおり江戸で脚気が流行していたことを示している。
特に江戸で流行した理由としては、江戸時代には米を精製・精白する習慣が広まったことによる。
精製・精白しない白米は「胚芽米」や「玄米」と言われるが、この胚芽米・玄米の胚芽部分や糠層の部分には、発芽に必要なビタミンが含まれている。
つまり、味や香り、保存性はよくなったものの、精製・精白することによってせっかくの栄養素を削ぎ落としてしまっていたわけである。
なお、明治時代には、1870年には脚気が流行し、明治末期までに毎年6,500人から15,000人前後の脚気患者を出している。
胚芽米や玄米を食べることで脚気を予防することができることは、日本国民は体感的には理解していたが、当時はまだ世界的にも「ビタミン」という栄養素が発見されていなかったため、「玄米を食べると脚気にならない・脚気が治る」というのは、いわゆる「民間療法」の域を出ない扱いであった。
日本陸軍の対応
明治期の大日本帝国陸軍では、規則において白米を採用していた。
当時、科学技術や医学においては、これまでの旧態然とした民間療法や伝承を排し、理論を至上としていた時代であった。
そのため、玄米や麦飯・胚芽米を食べると脚気にならないという論は、当時の軍医や医学界にも受け入れられないものだった。
脚気の原因は伝染病または中毒であるという考え方が支配的であった。
なお、当時陸軍軍医であり後に小説家にもなる森鴎外も、ドイツのコッホ研究所(感染症研究所)帰りだったこともあり、伝染病説を支持していたと言われている。
これらのことから、陸軍では脚気患者が増加しても白米を糧食とし続けた。
さらに悪いことに、当時は輸送体制が貧弱であったこともあり、戦地の兵士が口にする食事はしばしば副食が欠けた。
いわゆる「日の丸弁当」である。
このため、さらに白米依存の食事となり、脚気患者の増加に悪影響を与えたとみられる。
例として、戦闘でも多くの戦死者を出した日露戦争時のデータを見ると、総戦死者約4.5万人に対し、戦地入院脚気患者の死亡者は約2.7万人にも及んだとの見方がある。
日本海軍の対応
理論と感染症説を支持するドイツ医学を採用していた陸軍に対し、イギリス医学を採用したのが大日本帝国海軍だった。
イギリス医学は臨床主体・「根拠に基づく医療(エビデンスに基づく医療)」と言われ、その知見はビタミンの発見には届かなかったものの、脚気の発生は食物の違いによって差が出るというところまで検討されていた。
海軍では、食事の改善として当初パン食を導入したが、これは下士官以下に不評であったため、麦飯が支給されたほか、食事の洋食化も行われた。
「曜日を忘れないようにするため」や、「毎週金曜日に食べる」などの誤解がある「海軍カレー」についても、海軍が脚気を克服しようと試行錯誤する中での兵食改革の一環として行われたものであった。
海軍では麦飯を導入して一時的に脚気患者の抑え込みに成功しているが、その実、現場の兵士に麦飯や胚芽米は不評で、麦を混入する比率を秘密裏に下げて、余った麦を海中投棄するなどしていた結果、やはり脚気患者が増加するといった失態も珍しくなかったようだ。
なお、もともと海軍・船乗りといった長距離の航海を伴う集団では伝統的に、壊血病など他のビタミン不足や栄養失調にも悩まされてきたという歴史がある。
「陸軍は脚気患者を出したが、海軍は脚気の抑え込みに完全に成功していた」という見方も正確とはいえない。
脚気はいかにして克服された?
日本人を長く悩ませた脚気の原因もついに発見されることとなる。
1914年にポーランドの生化学者カジミェシュ・フンクがビタミンを発見し、1921年に日本でビタミンB欠食試験を行った結果、同年に脚気はビタミン欠乏によって起こるという説が確定した。
脚気への治療として、1932年には鈴木梅太郎の「オリザニン」が効果があることが指摘された。
しかし日本国民が脚気を克服していくにはさらに長い時間を要した。
戦後となる1950年ごろから、武田薬品工業の製剤した「アリナミン錠」が徐々に国内に浸透して以降、ようやく減少に転じることになる。
現代日本と脚気
近代的な輸送体制や保存体制、食品摂取の選択肢が広まった日本では、脚気患者が発生する可能性は低いと見られていた。
しかし、1975年にはジャンクフードが普及し、偏った栄養摂取を行う人が増えたことにより、脚気患者が発生したことが報告された。
また、2014年に発生した事例では、食品を購入しにいくことが困難な高齢者が、白米のみを食していたところ脚気を発症したという事例がある。
身近に患者のいない脚気であるが、現代においても適切な栄養摂取ができなければ、充分に発病する可能性のある病気なのである。
おわりに
日本食は健康的であるとして、現代ではむしろ欧米の人々が注目している。
しかし実際の日本の歴史を遡れば、充分な栄養が摂取できる水準の副食が添えられた食事というのは、当時の人々から見ればかなり豪勢なものだ。
現代では膝を叩く検査になんの意味があるのかと不審に思う人もいるだろうが、日本という国の国民が、長く苦しめられてきた脚気という存在を理解すれば、納得のいくものだろう。
オリザニンが、発見から20年以上無視され続けた原因の青山胤通についても書くべきでは?
鈴木梅太郎より先に高木廣兼を森鷗外とやり合った海軍と陸軍の軍医総監大将も書かなくてはいけなんじゃありませんか。
今はむしろ膝蓋腱反射は脚気よりも脳卒中の分野の検査になりましたよね。