人物(作家)

【明治の美人毒婦】 高橋お伝 〜斬首されて性器をホルマリン漬けにされた女死刑囚

夫の病気

高橋お伝

画像 : 高橋お伝(小林清親画) パブリックドメイン

高橋お伝(本名・でん)は嘉永3年(1850)7月に群馬県利根郡下牧村(現・みなかみ町)に生まれた。

お伝は出生後2ヶ月で養女に出されたが大事に育てられ、地元で評判の美人に育った。

14歳の時、親の勧めで宮下要次郎という男と最初の結婚をするが、気が合わずすぐに別れてしまう。おおよそ2年間ほどの結婚生活であった。

その後、同郷の高橋波之助と結婚した。2人は仲の良い美男美女の夫婦であったという。

しかしその後、波之助は癩病(ハンセン病)を発病してしまう。癩病は当時、不治の病とされ、また差別の対象であった。

お伝は献身的に波之助を看病し、あらゆる手段を尽くしたが、病は一進一退の状態で生活も苦しくなっていった。

明治4年(1871)12月、お伝達は村から逃げるように東京へ向かった。それから横浜に移動し、お伝は生活を支えるために時には街娼をしたりもした。また波之助の病気を治すために、当時、評判であった外国人医師・ヘボンの治療を受けさせようとした。

しかしお伝の献身的な看病の甲斐無く、波之助は明治5年(1872)9月に亡くなってしまったのである。

お伝の犯行

高橋お伝

画像 : 高橋お伝

波之助が亡くなった後、お伝は村に帰らず、妾になったり街娼をしたりしていた。その後、東京の麹町に住む小川市太郎という男と恋仲になった。

お伝にとって最愛の恋人が出来たことは幸せであったが、市太郎はヤクザ者で生活力がなく、遊び好きな男であった。次第に市太郎との生活で借財が重なって生活は苦しくなっていった。

明治9年(1876)8月、お伝は知り合いの古物商・後藤吉蔵に借金の相談をした。すると吉蔵は「どこかで1泊しないか」と、金を貸すような口ぶりでお伝を誘った。

8月26日、お伝は吉蔵の誘いに応じて偽名を使って偽装夫婦となり、浅草蔵前片町の旅館「丸竹」に入った。ところが翌朝、吉蔵は「金は貸せない」と言い出したのだった。

これに激高したお伝は、なんと剃刀で吉蔵の喉を切って殺害してしまったのである。

それからお伝は、姉の仇討ちを思わせるような書き置きを残して、吉蔵の財布から金を奪い逃走した。

その後の捜査で吉蔵とお伝の身元が分かり、9月9日、お伝は強盗殺人容疑で逮捕された。

しかしお伝は供述の中で「姉の仇討ち」と述べてなかなか白状せず、さらにお伝は「吉蔵は血迷った末に自害した」という主張もしたが、関係者の証言などから犯行が裏付けられ、お伝の主張は通らなかった。

お伝の処刑

その後、お伝は東京裁判所で死刑判決となり、明治12年(1879)1月31日に市ヶ谷監獄で斬首刑に処された。

高橋お伝

画像 : 高田露 パブリックドメイン

その時の刑の様子を高田露という人物が目撃していた。

高田は西南戦争に加担して5年の禁固刑となり、当時、市ヶ谷の懲治監にいた。刑に処される時のお伝は、長い獄中生活で少し頬がやつれているようであったが、肌が透き通る程白い面長の美人であったという。

お伝は斬首される直前になると、急に「申し上げることがございます!」と身をもがいて「市太郎さん!」と男の名を呼び始めたという。

獄卒も首斬浅右衛門も弱ったが、お伝を押し倒して一太刀あびせた。しかし斬りそこねたので再び振り下ろしたところ、また斬りそこねて頭部にあたった。

お伝は悲鳴をあげてさらに騒ぎ出し、男の名を呼んだ。血が流れ顔一面が真紅になりながら、何度も押し倒された。

そしてお伝は大きな声で「南無阿弥陀仏」と2回唱えた後、3度目に捩じ切りにされたという。

稀代の毒婦

お伝の事件は発生時よりも、斬首刑後にますます話題となった。

仮名垣魯文岡本起泉などの戯作者達は、事件を題材に面白おかしく脚色して売り出した。さらに歌舞伎狂言者が創作を加え「稀代の毒婦」に仕立て上げ、その作り話を歌舞伎役者が演じて人気となった。

世間でもお伝を「毒婦」という風に報じ、また彼女が美人であったこともあり世間から格好の話題とされ、全国に知れ渡っていったのである。

またこの時代、死刑囚を対象に腑分け(解剖)が行われていた。腑分けは江戸時代から始まり、その目的は医学の発展のためという目的が大きかった。お伝も腑分けされたが、その時に彼女の性器が切り取られ、ホルマリン漬けにされて保存されたのだった。

その腑分けの現場にいた軍医の高田忠良の話では、性器を解剖し取り出した理由は学術資料といったものではなく、多情の女ゆえ局部に異常な発達がみられるのではないかという位のことで、「ついでにやったことに過ぎない」という。

さらに高田は昭和12年(1937)に発行された雑誌「」の中で、お伝の腑分けについてのある真相を語っている。

それまではお伝の腑分けが行われた場所は、浅草茅町にあった警視第五病院といわれ、その場にいた軍医は執刀した小山内健と、立会人の小泉親正、江口譲、そして高田忠良の4人の軍医と伝えられていた。

しかし実際は、千住の某寺(清亮寺の可能性が高い)の境内で、板張りの小屋を作り解剖台を設けて行われたという。

その場にいた軍医も先述の4人を含めた総勢13人で、執刀医は二等軍医正の原桂仙、八杉利雄、阪井直常で、小山内はここでは立会人であったという。

解剖の目的は外科実習で、ごく内密に行われたため、関係者以外に知られることはなかった」と語っている。

世に晒されたお伝の標本

取り出されたお伝の性器は、一旦、東京帝国大学医学部の標本室に保管された後、陸軍軍医学校の病理学教室に移された。

さらにその後、昭和7年(1932)4月に発行された「ドルメン」という人類学などを取り扱う学術誌に、お伝の標本に関する論文が掲載された。標本の細密な測定図と写真も載っていたという。

この論文を発表したのは清野謙次という人物で、当時病理学で世界的に有名な学者であった。お伝の標本の測定をしたのは清野の教え子の中留金蔵という人物で、陸軍軍医学校の教官でもあった。

清野は

「僕が云いたいのは、局部が異常発達した女性は男性を強烈に要求し、男性も又これにひかれて性的犯罪の動機を生ずる事実である。(略)そして犯罪人類学の解剖学的部門に記載せらるるべきである」

と考察していたという。

さらにこの論文は、昭和50年(1975)7月に「阿傳陰部考(オデン インブコウ)」という題名で単行本化された。この本にはお伝の標本のモノクロ写真が2枚掲載されており、希望者にはそのコピーを郵便切手50円で送付していた。

昭和20年(1945)8月の終戦と同時に、陸軍軍医学校にあった様々な人体組織の標本が処分されたが、この時にお伝の標本はある人物に渡ったとされている。

その人物は二木秀雄といって、七三一部隊で結核研究班の班長をしていた。

七三一部隊(関東軍防疫給水部本部の略称)とは、細菌戦の研究・遂行のため日本陸軍が昭和8年(1933)に創設した特殊部隊で、先述した中留もこの部隊にいた。七三一部隊は実験・研究と称して非人道的な行為をしたとして世界中から非難された。

それからお伝の標本は敗戦直後の浅草松屋デパートの「性生活展」という展覧会に展示された。この展覧会の主催者は二木と考えられている。敗戦直後で人々が精神的・物質的に不安定な状況の中、この展覧会は人気があったらしく期間も延長されたという。

それから時が経ち、二木が亡くなると、お伝の標本も行方が分からなくなった。

お伝の墓と髑髏

お伝は腑分けされた後、性器は東京大学へ運ばれたが、残りのからだの部分は、江戸時代から刑死者が埋葬される回向院(豊国山回向院)へ運ばれたという。

高橋お伝

画像 : 高橋お伝の墓(谷中霊園) wiki c 遠枝

さらにお伝の墓は谷中にもあり、これは明治14年(1881)1月に「お伝もの」の小説や芝居に携わった有志達(仮名垣魯文など)によって作られた記念碑的な墓石であるという。

お伝の髑髏(どくろ)についてもエピソードがある。

明治開化奇談」によるとお伝の髑髏は、なぜか浅草の漢方医・宮田清宅に保存されていたという。斬首の際、お伝の抑え役が「お伝の首だから価値がある」と髑髏にした後、宮田家へ売ったとされている。

その後、明治22年(1889)3月に宮田清宅に「お伝の髑髏を見たい」という1人の僧侶が訪ねて来た。

その僧侶はなんと、お伝の内縁の夫・小川市太郎で、お伝の死後は山岡鉄舟の全生庵に寄寓し、その伝手で鉄舟寺でも修行していたらしく、お伝の髑髏のことはある法師から聞いたという。

市太郎はお伝の髑髏を見ると「後頭部に刀の傷がある、お伝のものに違いない」といって涙を流し、立ち去ったとされている。

お伝は人を殺めてしまったとはいえ、苦労しながら献身的に夫を支えた女性であった。

処刑後はからだの一部を標本にされ、人々から奇異の目で見られ、学術的な視点ということを理由に見世物にされたことはあまりに酷だと言えよう。

参考文献 毒婦伝説 高橋お伝とエリート軍医たち(共栄書房)

 

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草の実堂編集部

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