石川数正とは
戦国の世を制した天下人・豊臣秀吉と徳川家康、この二人に家臣として仕えた武将が石川数正(いしかわかずまさ)である。
石川数正は元々は家康の側近中の側近であり、家康が幼少の頃から忠義を尽くし「懐刀」と呼ばれるほど厚い信頼を得ていた。
しかし、家康と秀吉の直接対決となった「小牧・長久手の戦い」の翌年に、突如家康のもとを離れ秀吉のもとに寝返ったのである。徳川軍の機密情報を熟知している数正が秀吉のもとに行ったことで、家康と徳川軍は大慌てをすることになった。
一体なぜ数正は家康から秀吉へと主君を変えたのか?
その理由は未だに諸説があり、「本能寺の変」と並ぶ戦国屈指のミステリーだと言われている。
今回は、そんな石川数正の生涯について前編と後編に分けて解説する。
出自
石川数正の家柄は、清和源氏の流れを汲む名門で、数正の4代前にあたる石川親康から三河国の松平氏に仕えている。
数正の祖父と父は、家康の父である松平広忠の側近として仕えた。
和正は石川康正の嫡男として生まれるが、その生年については定かではない。
天文11年(1542年)家康(幼名・竹千代)が誕生すると、数正は家康と共に時代の波に巻き込まれていく。
当時の松平氏は今川氏と織田氏には挟まれた三河国の一領主で、その当時三河国は今川氏の支配下にあった。
そのため松平氏は今川氏の庇護を受けるために、わずか6歳の家康(竹千代)を人質として差し出すことになった。
そして、幼い子供一人では不憫だということで、年齢の近いお供が数名つけられることになる。
そこで数正の父・康正は、数正に家康と一緒に駿府に行くように命じたのである。
こうして数正は、家康と一緒に運命を共にすることになった。
数正の生年は上記の通り定かではないが、家康よりも2~10歳年上であったとされている。
松平氏に仕える石川氏の生まれであった数正は、幼い家康(竹千代)を自分が守ると言う強い気概に溢れていたと思われる。
家康と過ごした人質時代
岡崎城から今川氏の居城である駿府城に向けて船で旅立った家康一行だったが、到着した港はなんと今川氏と対立していた織田氏の熱田だった。
これは案内役を務めた家康の義理の祖父が、金に目が眩んで織田氏に家康を売り飛ばしたからである。
家康一行はそのまま織田氏の人質となり、数正は不安になる家康を懸命に励まし続けた。
そして2年後、今川氏と織田氏との人質交換によって家康一行は駿府城に移された。
数正は常に家康に寄り添い、人質生活の支えとなった。
家康はそんな数正のことを単なる家臣ではなく「竹馬の友」のように思っていたという。
転機
そんな家康と数正の人質生活も、12年目を迎えた時に転機が訪れる。
それは永禄3年(1560年)今川義元が尾張の織田信長に討たれた、戦国最大の番狂わせと言われる「桶狭間の戦い」である。
今川軍として参加していた家康は、今川義元が討死した知らせを受けると「人質生活脱却の好機」として駿府城には戻らず、数正らと共に生まれ育った岡崎城に帰還したのである。
家康の正室と子供を救った数正
ようやく自由の身になった家康だが、大きな問題が残っていた。
それは家康の正室・瀬名姫と、その間に生まれた長男・信康、長女・亀姫が駿府に取り残されていたことであった。
今川義元の跡を継いだ今川氏真は家康の寝返りに激怒し、駿府に残っていた松平氏の家臣やその関係者たちを次々と処刑していたのである。
家康の正室・瀬名姫は今川義元の姪にあたるため、すぐに処刑されることはなかったものの、家康は正室と幼い子供たちを救えないまま2年以上も時が経っていた。
そんな中、救出役を買って出たのが数正だった。
数正は死をも辞さない覚悟を持って今川氏真と面会した。「瀬名姫と子供たちを無事に返してくれれば、氏真の二人の従兄弟を代わりに返す」と人質交換を持ち掛け、粘り強い交渉の末に人質交換を承諾させたのである。
数正の命を賭けての行動力に、家康は深い感謝と厚い信頼を寄せるようになった。
こうして数正は、家康の家臣団において一目置かれる存在となったのである。
三河武士は狭量(きょうりょう・心が狭い田舎者)と総称されていたが、その中で石川数正は言わば「知将」「インテリ」な文化人であったという。
交渉の達人
三河の松平氏は、未だに尾張の織田と駿府・遠江の今川という強国に挟まれた一領主に過ぎず、戦国乱世を生き抜いていくためには強い味方が必要だった。
そこで家康が同盟相手として目をつけたのが織田信長だった。
しかし、三河の家臣団たちは長年敵対してきた織田と同盟を結ぶことに大反対した。
すると数正は「松平家を守るためには、破竹の勢いがある信長の力を借りるしかない」と家臣団たちを説得したのである。
そして同盟締結の交渉役として信長と何度も面会し、永禄5年(1562年)織田との「清須同盟」を締結させた。
数正が締結したこの清須同盟は、信長が「本能寺の変」で亡くなるまで破られなかった。
裏切りが当たり前の戦国乱世では非常に珍しい長く続いた同盟であることから、家康は律義者として評判を得ることになったという。
三河一向一揆
戦国武将として走り始めた家康を懸命に支えた数正だったが、清須同盟を締結した2年後の永禄7年(1564年)に大きな試練が訪れた。
それは厳しい年貢や軍役を課していた家康に対し、西三河の浄土真宗・一向宗の3つの寺が信者を率いて蜂起した「三河一向一揆」である。
三河は元々一向宗の勢力が強い土地柄で、家康の家臣の中にも一向宗の門徒が数多くいた。
忠義に厚い三河武士団たちも信仰する宗派を敵に回すことができず、多くの家臣たちが家康のもとを離れて一揆側についたのである。
実は数正も先祖代々一向宗の門徒であり、数正の父・康正を始め石川一族の多くが一揆側についた。
しかし数正が選んだのは、主君・家康につくことであった。
信仰よりも、幼少の頃から苦楽を共にしてきた家康との絆を選んだのである。
数正は先祖代々の一向宗から家康が信仰する浄土宗に改宗し、更に数正は一揆側についた石川一族の者たちを持ち前の交渉力で説得し、家康側に寝返らせたという。
そんな数正に、家康は深く感謝し信頼したことは言うまでもない。
徳川家臣団の筆頭
三河一向一揆は数正らの働きもあって半年ほどで終息し、数正はその功労者として家康から松平氏の家老を任じられた。
その後、家康は三河を平定し「徳川」と氏名を改めて、戦国大名の仲間入りを果たした。
永禄12年(1569年)には今川氏から遠江を奪い、勢力を拡大していく。
その中で数正は西三河の旗頭・軍団長に就任し、東三河の旗頭である酒井忠次と共に「両家老」と呼ばれるようになり、徳川家臣団の2トップとなった。
また、数正が救い出した信康が元服し、信康の後見人に就任し、幼い信康に代わって岡崎城で三河の政務を取り仕切るようになった。
戦場を駆け回る
主君・家康を支える数正は、徳川家臣団の筆頭として家康と共に多くの戦場を駆け回った。
元亀元年(1570年)6月の「姉川の戦い」では武功を挙げ、元亀3年(1572年)12月には戦国最強と謳われた武田信玄との「三方ヶ原の戦い」で大敗したが、数正隊は武田軍の先鋒を退却させるなど意地を見せたという。
天正3年(1575年)5月の武田勝頼との「長篠の戦い」でも数正隊は獅子奮迅の活躍を見せ、勝利に大きく貢献し武田軍にリベンジしたのであった。
数正は家康と共にほとんどの戦いに参加し、家康の命令を家臣たちに伝え、戦況報告を行う秘書官のような立場も果たしていた。
降伏を決意した敵将たちは、まずは数正に書状を送り、家康の意向を数正に伺ってもらうことが多かったという。
伊賀越え
そんな中、戦国最大のミステリーと言われるあの事件が起きる。
天正10年(1582年)6月2日、信長が家臣の明智光秀の謀反で亡くなる「本能寺の変」が起きた。
この時、家康らはわずか30名ほどで摂津国にいた。この事件を聞いた家康は
「光秀の次なる狙いは、信長と同盟を結んでいる自分であろう。30人ほどの共の者たちでは光秀軍に襲撃されたらどうすることもできない」
と自刃を決意したほどであった。
しかし数正たち重臣たちの必死の説得で、家康は生き延びて三河に帰国することを決意した。
そして家康たちは「伊賀越え」のルートを選択したのである。
数正たちは必死に家康を守り、時には山賊たちに金品を与えてやり過ごすこともあったという。
また、山寺にあった石仏を駕籠に乗せて家康の影武者に見立て、敵の目をくらませるという方法も用いた。
こうして家康一行は何とか「伊賀越え」を成功させ、三河に戻ることができた。
家康と共に三河に戻って安堵した数正だったが、信長亡き後の戦国の世はさらに揺れ動いていくこととなる。
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