忠臣蔵とは
江戸時代中期の元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家肝煎の吉良上野介に対して刃傷事件を起こし、加害者となった浅野内匠頭は即日切腹し、被害者である吉良上野介はお咎め無しとなった。
喧嘩両成敗のこの時代に、赤穂藩浅野家はお家取り潰しとなったのである。
この結果を不服とする赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助を始めとする赤穂浪士47名は紆余曲折の末、翌年の元禄15年(1702年)12月14日未明に吉良邸に討ち入りに及び、見事吉良上野介の首を討ち取り、浪士たち全員が切腹した。
この事件が有名な「赤穂事件」である。
後にこの赤穂事件は、人形浄瑠璃や歌舞伎の演目として上演されて大人気を博した。
「仮名手本忠臣蔵」、通称「忠臣蔵」として今も日本中に知られている。
今回は、赤穂藩が取り潰しになり吉良邸に討ち入りするまでの1年9か月の間に、大石内蔵助が詳細につけた赤穂藩の現存する帳簿「預置候金銀請払帳」に書かれた支出を紐解き、現在の貨幣価値に照らし合わせ、「忠臣蔵」には一体幾ら位のお金がかかったのか?前編と後編にわたって解説する。
預置候金銀請払帳とは
預置候金銀請払帳(あずかりおきそうろうきんぎんうけはらいちょう)とは、赤穂藩の改易後から吉良邸討ち入りまでの収支明細を、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助が克明かつ詳細に取りまとめた52ページに渡る帳簿である。
大石内蔵助は、吉良邸討ち入りの日にこの帳簿を亡き主君の妻・瑶泉院(ようぜんいん)に渡したという。
そして瑶泉院はこの帳簿を箱根神社に預けた。
現在でも原本は箱根神社に所蔵されており、赤穂市の大石神社には写本が所蔵されている。
今回の換算レート
今回の換算レートは以下の通りとして計算する。
金1両 = 12万円
金1分 = 3万円
金1朱 = 7,500円
銀1匁 = 2,000円
銭1文 = 30円
江戸時代は金・銀・銭が貨幣として流通していた。
赤穂藩の残務整理に着手
元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭の切腹と共に赤穂藩浅野家のお取り潰しが決定する。
国許の赤穂藩は城と領地を明け渡すことになった。
これに際し、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助は様々な赤穂藩の清算処理業務をすることを急ぎ迫られた。
藩が取り潰しになると、領地・城・江戸屋敷は幕府に返上することになる。
だが、それまで各藩が蓄えてきたものは藩の財産として清算処理をすることができ、それをお金に換えることができた。
内蔵助が最初に着手したのが藩札の清算だった。
藩札の清算
藩札とは、諸藩が独自に発行した紙幣で、代金の代わりに商人などに支払っていたものである。
その価値は藩が消滅(取り潰し)になると無くなってしまうため、その前に出回っている藩札を換金する必要があった。
赤穂藩が領内で発行した藩札の総額は銀900貫目、現在の価値に換算すると約18億円で、赤穂藩の年間予算に匹敵する金額だった。
当然、赤穂藩のお取り潰しが伝わると、藩札を持っていた商人たちが「ただの紙切れになる」「銀に交換して欲しい」と、刃傷事件からわずか5日後には役所の札座(さつざ)に殺到した。
赤穂藩のある関西地方、大坂や京都は主に銀貨が使われ、江戸では主に金貨が使われていた。
内蔵助は18億円という藩の年間予算に匹敵する藩札を、一体どのように処理したのだろうか?
赤穂藩には「替り銀」という藩札のための準備金、銀700貫目・約14億円が用意されていた。
これを使えば藩札の換金に必要な銀900貫目の大部分を補うことができ、残りは200貫目・約4億円となる。
内蔵助はその残り分を、赤穂藩の特産品である塩を作る塩田に課した税金の運上銀で清算しようと考えていた。
しかし、赤穂藩は大坂の商人たちに借金をして財政の不足分を補っていた。
その為、内蔵助が使おうと考えていた運上銀は、大坂商人の借金の担保として取り上げられてしまったのである。
「200貫目、約4億円の不足をどうするべきか?」と内蔵助は悩んだ。
最初の動きとして、浅野家の本家筋にあたる広島藩に借金の申し入れをしたが、けんもほろろに断られ、姻戚関係のあるどの藩も取り潰しになる家のために貸してくれるところは無かった。
そこで、悩んだ内蔵助は「藩札は六分替えで行う」という妙案を思いついた。
額面の6割で銀に交換することにしたのである。
銀900貫目の6割は銀540貫目・約10億8,000万円となり、これなら替り銀700貫目・約14億円で充分賄えることができた。
商人たちも踏み倒されるよりはマシだとして、この条件を飲んでくれた。
こうして内蔵助は藩札の清算を何とか切り抜けたのである。
藩士の給与と退職手当の清算
赤穂藩はおよそ300人の藩士を抱えていた。
突然藩が潰れれば藩士たちは浪人となり、路頭に迷うことは目に見えていた。
そこで、内蔵助は給与にあたる米を藩の米蔵から放出し、この年の分を一括で支給することにした。
最後の給与として米1万7,836石、現在の価値で約16億5,000万円となった。
更に「割賦金」と呼ばれる退職手当があり、この総額は金5,899両、約7億1,000万円にまでなったのである。
本来、割賦金は現在のボーナスと似ており、藩士一人一人の石高に応じて支給されるものだったが、内蔵助は高い禄を貰っている藩士には支給をやや減らし、小禄の藩士にはこれからの生活を考え、比較的高い割賦金を与えたのである。
しかも高禄を貰っている内蔵助は、割賦金の受け取りを辞退している。
こうして赤穂藩は最後の給与と現在の価値にして約23億5,000万円の割賦金を藩士たち300人に分け与えた。
単純計算でも、藩士一人につき780万円ほどを支給したことになる。
家を失くし働く場所を失った藩士たちは、このお金で大坂・京都・江戸などですぐに新しい生活の基盤を作らなければいけなかった。
その他、物品等の売却
赤穂藩が持っていた船17艘は、銀17貫目・約3,400万円で売却。
具足・馬具・弓・槍などは、銀15貫目・約3,000万円で売却。
鉄砲150挺・大筒も売却できたが、残念ながらその金額に関する資料がなく、幾らで売却したのかは不明である。
藩士たちも、それぞれ自分の家財道具の整理を行って屋敷などを明け渡して赤穂城から立ち退いて行った。
元禄14年(1701年)4月19日、ついに赤穂城が幕府に引き渡された。
内蔵助はこうして赤穂藩のすべての残務整理を終えたが、赤穂藩のお金は一体幾ら残ったのだろうか?
赤穂藩のお金として残った額は金391両、そして亡き主君の正室・瑶泉院から授かっていた化粧料300両、両方を合わせた残金は金691両・約8,292万円だった。
これが後の討ち入りの軍資金となるのだが、後編ではこの大金を内蔵助はどう使ったのかについて解説する。
後編 : 忠臣蔵(赤穂事件)は、一体いくら位のお金がかかったのか? 〜後編 「約8,292万円の軍資金が減っていくリアルな過程」
参考文献 : 「忠臣蔵」の決算書
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