1600年の「関ヶ原の戦い」は、天下分け目の戦いとして知られている。
一般的には徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍の戦いとされる。(※正確には三成は西軍の総大将ではないが、中心人物であったのは確かである)
この戦いに西軍として参戦したのが、石田三成の親友である大谷吉継(おおたに よしつぐ)だ。
彼は西軍が敗北した際、唯一関ヶ原で自害した大名である。
その大谷吉継の首はどこへいったのだろうか。これにはあるエピソードが残っている。
病気の体をおして参戦した石田三成の親友
大谷吉継は、石田三成と共に豊臣秀吉の家臣として活躍した人物である。敦賀を治め、知恵者として知られていた。
主に、兵站などの縁の下の力持ちとして三成と共に活動していた。二人は親友であり、その友情は固かったという。
やがて吉継は、業病(ハンセン病だったという説がある)を患った。
そのため、周りから気味悪がられたり、「人を食べるために辻斬りをしている」などと、悪い噂を流されることもあった。
また、病気の影響で失明していたという逸話もある。
それでも二人の友情は変わらず、「衆道関係(男同士の恋人)なのでは」と噂が立つほどであったという。
吉継は最初、三成の挙兵には反対していた。
家康とも交流があった吉継は、「三成では家康に勝てない」と考えていたのだ。
しかし、三成は吉継を熱心に説得し、自分の屋敷に招いた彼を半ば軟禁する形で、自分の正当性と勝利の見込みを訴え続けた。
三成は、「吉継が協力すれば勝てる」と信じていたのだろう。最終的に吉継は三成の説得に折れ、協力することを決意した。
吉継は、三成にそれほど人望がないことも理解しており、総大将には毛利輝元か宇喜多秀家を据えるように助言したという。
唯一戦場で自害した大名
関ヶ原の戦いにおいて、吉継は三成のために奮戦した。
藤堂高虎・京極高知を相手に戦ったが、吉継の采配は見事に功を奏し、戦況を有利に進めていたとされる。
しかし、戦況に異変が生じた。
西軍の大名であり、共に戦うはずだった小早川秀秋が、突如として裏切ったのである。
しかし吉継はこれを察知しており、謀叛に備えていた直属の兵600で迎撃し、小早川軍を何度も山に押し戻したという。
吉継軍は寡兵にもかかわらず激戦を繰り広げ、小早川の「監視役」として派遣されていた東軍の奥平貞治は、この時に深手を負い、後に死亡している。
しかし、同じく小早川軍の裏切りに備えて配置していた、脇坂、朽木、小川、赤座の四軍までもが裏切ったのである。その数4200。これらの裏切りは、敵方の藤堂高虎が巧みに調略を行っていた結果であった。
さすがの吉継軍もこれには持ちこたえられず、次第に追い詰められ、吉継は関ヶ原の地で自害を選んだ。
吉継は「病気で崩れた私の醜い顔を、敵に晒すな」と、側近の湯浅五助に言い遺して果てたという。
三成を含む西軍の武将たちの多くは戦場から逃げ去ったが、吉継だけは最後まで逃げることなく戦い続けた。
吉継は唯一、最後まで忠義を貫いたのであった。
湯浅五助と対峙した藤堂仁右衛門
湯浅五助は吉継の首を持って走った。そして適当な場所を見つけると、その場に埋めた。
しかし埋め終わった頃、五助は敵に発見されてしまう。
それは、藤堂高虎の義理の甥・藤堂仁右衛門高刑(にえもん たかのり)であった。
五助は仁右衛門に頼みこんだ。
「私の首をあげるので、どうか主君の首がここにあることを、秘密にしてほしい」
仁右衛門はその願いを聞き入れ、五助を討ち取り、彼の首を持ち帰ったという。
大谷吉継の首の行方
仁右衛門が湯浅五助の首を持ち帰ると、主君・高虎は喜んで家康に報告した。
湯浅五助は、勇士として知られていた。
一方、仁右衛門は当時19歳。普通に戦って勝てる相手ではない。
家康は疑問に思い、仁右衛門に聞いた。
「湯浅五助は大谷吉継の側近。五助なら吉継の首のありかを知っていたはず。吉継の首はどこだ?」
仁右衛門は、こう答えた。
「大谷吉継の首のありかは言えません。湯浅五助に他言しないと約束した上で首を討ち取ったからです。言えない事が不興でしたら、どうぞ私を処分してください」
吉継の首を発見すればさらなる大手柄だったにもかかわらず、仁右衛門はそう言い放ったのだ。
家康はこの姿勢に感心し、備前忠吉の刀と槍を仁右衛門に渡したという。
こうして吉継の首は、関ヶ原の地中で眠ることとなった。
大谷吉継の首塚
関ヶ原には大谷吉継の墓がある。これは誰が建てたのだろうか。
これは戦後間もなく、藤堂家が建てたものである。
首のありかを知っているのは藤堂仁右衛門だけ。つまり藤堂家が仁右衛門の言葉に従い、首の場所に墓を建てたと推測できる。
そして隣には、湯浅五助の墓も並んでいる。
こちらは大正時代に入ってから、五助の子孫によって建てられたものだという。
現在は関ヶ原の観光スポットの一つになっている。行く場合は登山になるので動きやすい服装を推奨する。
おわりに
吉継の親友・石田三成は、関ヶ原の敗戦後に家康によって処刑された。あの世で再会できただろうか。
その後、仁右衛門は主君・高虎の片腕となって活躍したが、大坂の陣にて豊臣方と戦い戦死している。享年39。
大谷吉継の子・吉治は、義兄弟である真田幸村(吉継の娘は幸村の妻)と共に大坂城に入り、徳川方と戦い戦死している。
吉継の首をめぐって一時は情を見せた両家も、結局は大坂の陣で再び敵対関係となってしまったようだ。
それでも現代まで大谷吉継の墓が残っているのは、命令を守った五助、約束を守った仁右衛門のおかげなのである。
参考 :『常山紀談四』『関ヶ原町歴史民族学習館 第2章 史跡関ヶ原古戦場の概要』
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