山田雄司「怨霊と怨親平等思想の間」
ところで「『平家物語』は平家の怨霊を慰めるためにつくられた」という説を検証する前提として、井沢氏の取られた手法は大いに参考になった。
まずは先入観を廃して、怨霊信仰そのものを学び直してみなければならない。学校や教科書は何も教えてくれないかもしれないのだ。
そして私はひとつの論文に辿り着いた。
三重大学教授で歴史学者の山田雄司による「怨霊と怨親平等思想の間」という論文である。これは錦正社から2010年に出版された國學院大學研究開発推進センター編『霊魂・慰霊・顕彰―死者への記憶装置―』に収録されている。
この論文の中で山田氏は「怨霊思想の変遷」と題して、我が国における怨霊思想の歴史を検証している。
山田氏は「『古事記』『日本書紀』では「怨霊」という語は見られないが、それと似た現象として「祟り」が存在する」とした上で「国家の中枢を震撼させた怨霊として史料的に確認できるのは、平城遷都が行われた奈良時代以降のことであり、その最初は長屋王である。」と述べる。
また山田氏は「なぜ奈良時代になって史書に怨霊と呼ばれるような現象について明確に記述されるようになったのか」について、「最も大きいのは恒常的な都の成立であろう」として、「閉鎖的空間へ貴族が集住」する環境において「政争が繰り返し、自らの出世のために敵を追い落とす。そして都から追放されて非業の死を遂げた人物は、死後再び都に戻って政敵を倒そうとするものと考えられた」と述べる。
ただし「一般に怨霊は神として祀りあげられることによって鎮魂が図られるとされているが、果たして奈良時代の怨霊について、この考え方が適用できるだろうか、私はこれには否定的である」として、「怨霊の鎮魂にあたって大きな転換となったのは菅原道真の場合である。道真の場合は託宣により北野天満宮という神社が建立され、天満自在天神という神号が付与された」としている。
要するに「奈良時代の怨霊は神として祀られていないので『御霊』ではない」ということであろう。
さらに山田氏は「院政期は怨霊の全盛期で、崇徳院・安徳天皇・後鳥羽院・順徳院ら、配流されたり非業の死を遂げた天皇・上皇らが相次いで怨霊になったとみなされた。慈円の『愚管抄』など怨霊を重視して歴史を分析していく史書も生まれた。」と述べつつ「こうした背景には、この時代が呪術の時代とも呼べる時代であったことがある。」として、院政期における文化的・宗教的背景にも言及する。
ところで、山田雄司氏の論文「怨霊と怨親平等思想の間」では、もうひとつ「怨親平等」というキーワードが掲げられている。
この語の意味として山田氏は、中村元「仏教語大辞典」を引用してこう説明する。
「敵も味方もともに平等であるという立場から、敵味方の幽魂を弔うこと。仏教は大慈悲を本とするから、我を害する怨敵も憎むべきでなく、我を愛する親しい者にも執着してはならず、平等にこれを愛隣する心をもつべきことをいう。日本では戦闘による敵味方一切の人畜の犠牲者を供養する碑を建てるなど、敵味方一視同仁の意味で使用される
そして山田氏は「このような為政者による敵味方関わりなく供養するあり方は、特に院政期以降顕著になっていく。」として、建久八年十月四日「源親長敬白文」において「保元の乱以来の諸国で亡くなった人々の供養をしようと、頼朝が全国に八万四千基の宝塔造立を計画し、但馬国分として三百基造立することが述べられている」として、その中で「須混勝利於怨親、頒抜済於平等」と、源頼朝の周囲において怨親平等思想が見られることを指摘している。
山田氏は述べる。
「怨霊調伏のために八万四千基を造立しようとしているのではなく、死者の追善・追福のためにであり『怨親平等』思想に基づくものと理解した方がよいだろう。
なお、怨霊と怨親平等思想の関わりについて山田氏は「怨霊の鎮魂と『怨親平等』思想に基づく供養とはときに密接にからみあっているが、両者は基づく思想が異なっているため、別物として考えた方がよいのではないだろうか。原則として怨霊となるのは個人であるのに対し、後者の場合は多数の死者に対して行われる。」としている。
そして山田氏はこのように述べる。
「国家にとって『怨霊』が重要な位置を占めていたのは中世までであり、近世以降は民衆の中で恐れられるにとどまった。そして、怨霊が神とされるのは、十世紀以降の菅原道真以降のことである。
「『慰霊』は怨親平等思想の拡大とともに鎌倉時代より盛んとなり、室町時代には施餓鬼と結びついて戦乱で亡くなった大量の人の供養が行われた。
以上の2点の指摘を考慮すれば、「平家物語」が成立したとされる時期は、ちょうどまさに「怨霊思想」と「怨親平等思想」のクロスする時代であることがわかる。
仮に「平家物語」の成立に慈円が関わったとして、慈円やその周囲の者の胸中にあったのは「怨霊思想」と「怨親平等思想」のどちらなのか。いやもしくは、その両方であったのだろうか。なかなか難しい問題である。
築土鈴寛による指摘
実は、慈円と「平家物語」の成立にまつわる思想的問題について、既に指摘をされている先学がおられる。
築土鈴寛(1901年-1947年)である。僧侶であり、かつ民俗学者でもあった人物である。
「築土鈴寛著作集」に収録されている二つの論文から「平家物語」の成立に関して本論と関係が深いと思われる部分を引用する。
「(後鳥羽)上皇の御願により、慈円が大懺法院を建てたのは元久二年であるが、合戦の死者を回向して、もつて浄土の鎮めと上皇の無窮を祈ることにあった。怨親平等の自他不二的な慈悲をそれによつて示したのである。かうした事情の中で、平家物語が成長していつたことを一応考へにとめておいてよい。平家物語は、いはば御願のうちにおいて成つたのである。」(「新古今集と平家物語」)
「人の語つたものが記録されて、そのいくつかが、平家の成立に参与してゐるとしたら、その記録の性質はどういふものであつたらう。それは恐らく、語つた人の感情、普通の記録文と比較されえぬ濃度で伝へてゐるものと考へられる。
「平家の古いものは、記録的なものが多かったと思はれるが、おのづから普通の記録の具へないものをもつてゐたといふことは想像できるのみならず、平家物語の成立が、承久以前であつたとすると、それを伝へ、読みまた書いた人には、多くの事件の感動を身に親しく経験した人である。おのづから批判は生れ、一人ではなく、多くの人の感情は、実録記録を訂し、または共鳴の嘆息を以て色づけを行うたと思はれる。
「私は平家が承久の年を境にして大に改つたといふ想像をもつてゐるので、それには慈円の考方などが影響してゐはせぬかと思つてゐる。延慶本の如きは、そこを通つてきてゐるやうに思ふのであるが、細かい考証があるので措いておく。その場合、光盛や行長あるいは無名の人士の協力があったと想像することは、さう甚だしい誤りではあるまいと思ふのである。
「大懺法院は、後鳥羽院の御願寺となつたが、字の如く懺悔滅罪によつて、此の世の怨を禳ふにあつたが、それには保元以来合戦死者の怨結を解くことが、最要であるとしたのである。この点よりして、世の乱れは、すべて過去の怨念の所為である。それは現在においては、邪智妄念となって跳梁すると考へたが、これは愚管抄の最も力説したところで、側近廓清の論のいづる動機となつたのが、これであったと思つてゐる。
「平家物語に示された、あの共同精神、集団的な色合は、怨親平等の一味法界の佛会といふことと、全く関係がなかつたであらうか。盲僧の任務たる。土地の鎮めと払怨のわざは、世の泰平と文化とを思ふ識者の、これを利用することがあつたかもしれないのである。
「慈円は、世の泰平のためを思つて、愚管抄を書いたが、いはば平家は、逆縁的に、世の泰平を祈る、すなはち怨霊回向の祈りの物語として、漸次その姿を整へきたり、六道輪廻の物語をもつて、その終止符とするやうになつたのかと思はれるのである。
(「平家物語についての覚書」)
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私は日本史英語外国語世界史は詳しくないけど平家物語枕草子源氏物語のこと勉強せずに世界史も森羅万象も理解することは難しいと思う。世界史森羅万象は日本語日本史を完璧に理解してこそ理解できるものです。平家物語は珍しい表現。
鎮魂歌のような意図は当然あったでしょうけどそれだけでない 現実とは違うんだよ って
ビートルズの歌にあった歌のテーマが平家物語の言いたかったことじゃないかと思うようになった。
なんでまた日本にしては珍しい平家物語という鎮魂歌難しい政治変化などが発表されたかは
壇之浦の戦いが終わって禅の文化教えが教養となり難しい南北朝時代が続いてまるで 祇園精舎の鐘の色の名文そのままの時代が江戸時代まで続いたようなものです。
ところで管理人さん お願いあるんですが大火の改新の前の天体変化が中国で昼間から金星が観察されたとしかマンガでしかのってないので日本は推古天皇の時からがオーロラを観測したしか載ってないのでもし大火の改新の前の日本での天体変化をご存知ならばネットにのせてください。
あとはいくら探しても戦国時代の地下施設がなかなか見つからないのです。単なる城の地下で貯蔵庫や台所の通路として使っていたとか逃亡するときに城下の地下トンネルから逃げたという逸話しかないのです。もし戦国時代の何らかの地下施設をご存知ならばそれも発表してほしいのです。
コメントありがとうございます。
「日本においての天体変化」「戦国時代の地下施設」
テーマとして候補に入れてみます。
ありがとうございますm(_ _)m