木曽義仲とは
木曽義仲(きそよしなか)とは、源氏一族で本名は「源義仲(みなもとのよしなか)」と言い、源頼朝や源義経兄弟とは従兄弟にあたる人物である。
以仁王の平氏追討の令旨によって挙兵した義仲軍は、初戦に勝利すると快進撃を見せ勢力を拡大しながら北陸に進軍し、倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で平氏の大軍を破った。
破竹の勢いで京都に迫る義仲軍を前に、平氏一門は安徳天皇を伴って西国へと逃れた。
義仲は京都の人々から平氏を都落ちさせた英雄として歓迎され、朝廷から京都の警護と治安維持を任されたが、なんとその義仲軍が略奪を始めるという予想外の事態が起こってしまう。
義仲は皇位継承への介入などによって後白河法皇の怒りを買って対立し、法皇を幽閉して征東大将軍となり、信用回復のため平氏追討に向かった。
しかし、苦戦する義仲のもとに鎌倉の源頼朝が弟・範頼と義経に義仲討伐軍を京都に向かわせるのである。
実直で豪快な朝日将軍(あさひしょうぐん)・木曽義仲の生涯について前編と後編に分けて解説する。
出自
木曽義仲こと源義仲は、久寿元年(1154年)源氏一族として源頼朝・義経の父である源義朝の弟・源義賢(みなもとのよしたか)の次男・駒王丸として生まれた。
義仲の前半生に関する資料はほとんどなく、義仲の母は遊女とされ、兄・仲家とは母が異なる。出生地は武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)と伝えられている。
父・義賢は兄・義朝との対立によって義朝の長男・義平(頼朝の兄)に討たれてしまう。
兄の仲家は京都にいたため難を逃れたが、2歳だった駒王丸は殺されかけた。
しかし畠山重能・斎藤実盛らの計らいで信濃国に逃れ、乳父である中原兼遠の腕に抱かれて信濃国木曽谷(現在の長野県木曽郡木曽町)で育ったため、通称「木曽次郎」「木曽義仲」と名乗った。
ここでは「木曽義仲」または「義仲」と記させていただく。
「源平盛衰記」によると「信濃の国安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村という説もある。
また、諏訪大社に伝わる伝承では一時期、下社の宮司である金刺盛澄に預けられて修業したとも言われている。
こうしたことも関係してか、後に手塚光盛など金刺一族が挙兵当初から中原一族と並ぶ義仲の腹心となっている。
木曽の豪族である中原兼遠に育てられ、そこで出会ったのが家臣となる中原兼遠の子である樋口兼光(ひぐちかねみつ)、今井兼平(いまいかねひら)、巴御前(ともえごぜん)であり、今で言う幼馴染の間柄だった。
※巴御前については諸説がある。
挙兵
義仲が歴史の表舞台に立つのは治承4年(1180年)である。以仁王が全国に平氏打倒を命じる令旨を発し、叔父・源行家が諸国の源氏に挙兵を呼びかけたのである。
義仲の兄・仲家は、同年5月の以仁王の挙兵に参戦し宇治で討死している。
木曽の山奥に住んでいた27歳の義仲もこれに呼応し、ついに挙兵する。
小見「麻績」の戦い、合田の戦いに勝利し、同年9月7日、義仲は兵を率いて北信の源氏方救援に向かい、市原合戦にて平氏方・笠原頼直に勝利する。
そのまま父の旧領である上野国へと向かい先代の郎党を確保したが、源頼朝との衝突を避けて2か月後には信濃国に戻った。
翌治承5年(1181年)6月、白鳥河原に木曽衆・佐久衆・上州衆など3,000騎を集結、越後国から攻め込んできた城長茂を横田河原の戦いで破り、そのまま越後から北陸道へと進軍した。
寿永元年(1182年)以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示した。
その後、頼朝と結んで南信濃に進出した武田信光ら甲斐源氏との衝突を避けるために、頼朝・信光の勢力が浸透していない北陸に勢力を広める。
寿永2年(1183年)2月、頼朝と敵対した志田義広と、頼朝から追い払われた源行家が義仲を頼って身を寄せた。
義仲がこの2人の叔父を庇護したことで頼朝と義仲の関係が悪化してしまい、一触即発の事態に陥ってしまう。
義仲と頼朝は武力衝突寸前だったが、義仲は嫡男・義高を人質として鎌倉に送り、頼朝の長女・大姫と婚姻させることで和議が成立し、頼朝との対立は一応の決着がついた。
この頃、幼馴染の今井兼平・樋口兼光、そして根井行親(ねのいゆきちか)・楯親忠(たてちかただ)の4人の武将が「義仲四天王」とされ、義仲の下で大活躍をしたという。
今井兼平・樋口兼光の姉妹である巴御前は義仲の妾で、「義仲四天王」と共に義仲の平氏討伐に従軍し、大力と強弓の女武者として活躍したという。
義仲は北陸地方の平氏に不満を持つ者たちを次々と味方につけ、連戦連勝を重ねていった。
こうして西の平氏、北陸の義仲、関東の頼朝、奥州の藤原氏と4つの大きな勢力ができ上がるのである。
俱利伽羅峠の戦い
養和2年・寿永元年(1182年)、養和の飢饉によって平氏のいる都は深刻な食糧危機に陥った。
特に平氏の勢力地である西国からの食糧調達はままならなくなった。
東国は頼朝を筆頭に反乱が後を絶えず、同じく食糧供給は途絶えており、唯一頼ることができた北陸地方は義仲が勢力を拡大していた。
このままでは平氏は飢饉によって困窮するため、義仲の北陸地方に活路を見いだす戦略をとった。
寿永2年(1183年)平維盛を大将に平氏は10万の大軍を北陸に送り込み、義仲軍が築いた城を攻めて連戦連勝し、越前・加賀・越中の義仲軍の城や砦を攻略し、残すは越中のみとなった。
義仲四天王の1人・今井兼平は、6,000の先遣隊で平盛俊が陣を張る般若野を奇襲した。
この奇襲が功を奏して平氏軍は倶利伽羅峠(くりからとおげ・現在の石川県河北郡津幡町俱利伽羅と富山県小矢部市石坂との境に位置する峠)の西に戻る。
平氏軍到着の前に義仲は俱利伽羅峠の埴生庄に到着、源氏の氏神を祀る埴生八幡宮を見つけて戦勝の祈願文を奉納、祈願文を読み終えた後に三羽の白鳩が源氏の白旗の上に飛び降りたという。
平氏軍と義仲軍の兵力差は圧倒的に平氏軍が多く、平野での戦いは義仲軍に不利であった。
そこで義仲は、平氏軍を俱利伽羅峠に留めるために源氏の白旗を山麓に立てて、あたかも大軍だと見せかけた。
これを見た平維盛は俱利伽羅峠の猿ケ馬場で停止、相対するもその日は戦にならずに夜を迎える。
義仲はこれを待っていた。進撃するのをあえて止めて夜の奇襲を考えていたのだ。
夜半まで待ち、警戒が解かれた状況で奇襲攻撃を開始、そして角に火のついた松明をつけた牛を放つ「火牛の計(かぎゅうのけい)」を敢行。
混乱した平氏軍は逃げまどい、追い詰められて谷底へ落ちていった。30mもある谷底は平氏軍の死体で積み重なり、流れる川は血や膿で染まったという。
この谷は「地獄谷」、川は「膿川」と呼ばれる。
こうして義仲は10万の平氏軍に大勝利を収めるのである。(俱利伽羅峠の戦い)
入京と朝日将軍
この勢いで義仲は「篠原の戦い」にも勝利、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。
6月10日には越前国、6月13日には近江国、6月末に都への最後の関門である延暦寺との交渉を始める。
勢いを増した義仲軍の攻勢に7月25日、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁し「三種の神器」を持って西国へ逃れた。
平氏は後白河法皇も伴うつもりであったが、危機を察した法皇は比叡山に身を隠し都落ちをやり過ごした。
7月27日、後白河法皇は義仲軍に組する者に守護されて都に戻る。
平家物語では「この20年余年見られなかった源氏の白旗が今日はじめて都に入る」と書かれている。
7月28日に義仲は無血で入京する。
8月、平家物語では後白河法皇より「朝日将軍(あさひしょうぐん)」の称号を賜り、京都の治安維持の取り締まりを委ねられたとある。
破竹の勢いで平氏を都落ちさせ、「朝日将軍」として無血で入京した義仲。
ここまでの木曽義仲はまさに英雄であった。
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