室町時代

小田原城の歴史について調べてみた

神奈川県の西部に位置する小田原は、戦国時代には南関東一円を支配する北条家の拠点であった。その中心が小田原城である。

豊臣秀吉が天下統一の最後の仕上げとして攻め入るまでの約100年、小田原城はその堅牢さから落ちたことがない。実に5代に渡り北条氏の繁栄を見せた。

しかし、小田原攻め以前の小田原城について知っている人は少ないだろう。

先日私は小田原城に実際に足を運び記事にしてみたわけだが → 小田原城に行ってみた【観光レポ】
今回は小田原城の歴史について詳しく調べてみた。

小田原城の歴史について調べてみた
※ALL写真撮影 gunny

小田原の成り立ちと立地

小田原城は、15世紀中ごろに大森氏が築いた城が原型と言われている。

戦国時代の1495年、伊豆国出身の伊勢盛時(いせそうずい)が小田原城に攻め入り、大森氏からこの土地を奪った。その後に伊勢盛時は北条早雲と改名したらしいが、彼の出自や小田原攻めの時期、改名についてのエピソードについては不明な部分も多い。


※北条早雲像 撮影gunny
それまで早川村と呼ばれていた地域にあった小田原城は徐々にその規模を拡大することとなった。なお、早川の地名は小田原市の漁港付近に今も残っている。

戦国時代においての関東は東の果てであった。

勿論、関東以東にも武将はいたが、有力武将が支配する地域は京都を中心にせめぎあっている状態である。東は北陸と関東を縦に線を結んだ地域までが実質的な脅威だった。つまり、それよりもさらに古い時代の関東などは、戦略的にも重要視されていなかったようだ。そのおかげもあってか、北条氏は室町時代を通じてその勢力を南関東一円にまで広げたようである。

北条家三代目当主・北条氏康の頃には全盛を誇り、その領土は現在の八王子付近まであったといわれる。

小田原一帯は足柄平野と呼ばれる小さな平野にあり、小田原城はその西部に位置している。東は平野が見渡せ、その途中には「酒匂川(さかわがわ)」が流れているため攻略は難しい。対する西は、背後を箱根山に守られている。そして、北は小高い丘があり、南は海という立地から難攻不落の城と言われていた。

特殊な城

小田原城は全国においても珍しい構えとなっている。

城を守るための城郭構造が総構えなのだ。総構えとは、石垣や堀など城を守るための設備が城の周囲だけではなく、城下町一帯を囲むように形成されたものである。総構えの城は大阪城や姫路城、後の江戸城などもあり大して珍しくもないが、驚きなのはその規模の大きさだ。

豊臣秀吉小田原攻めに乗り出した頃には、その総延長は2里半(約9km)にも及び、当時としては姫路城に次いで日本で二番目の大きさだったらしい。今でも小田原城の西側の山にひっそりと残る西端の空堀までは、天守閣より直線距離で約2kmほど離れている。勿論、その全てが水堀や石垣ではなく、ほとんどは水の張っていない空堀土塁であった。
空堀とは水の引けない山城などに多く利用された方法で、城を囲むように土を盛ったりして凹みを作り相手を遮断する構造である。城によって規模は違うが、幅約25m、高さ約12mほどでも攻める側からすれば一度堀の底に下りてしまうと登るのが困難になる。防御側はそうした兵を堀の上から矢で射るなどして守った。その一部は現在もひっそりと残っており、目にすることが出来る。
この構えが完成したのは北条が豊臣にとって最後の障害となる頃であった。やがて訪れる豊臣軍に対抗するために整備されたようだ。

それ以前にも、駿府の今川氏や甲斐の武田氏、越後の長尾氏などを警戒して整備は進められており、小田原城は城塞都市として発展していったようである。


※小田原城西方の空堀 撮影gunny


空堀より石垣山を見る  撮影gunny

攻防の歴史

北条100年の歴史において攻め込まれる危機も勿論あった。なかでも有名なのが甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎(上杉謙信)との戦いである。

長尾景虎は、1560年の桶狭間の戦いにより今川氏が敗れたことに乗じ、北条家三代目当主・北条氏康を討ち取るため越後から関東へ出兵する。氏康の時代は先にも書いたように北条家にとって最盛期であった。それにも関わらず景虎が出兵したのにはある理由があったようだ。

景虎はこの時期に関東管領に匹敵する権限を将軍から与えられていた。関東管領とは、簡単に言ってしまうと関東における平定を維持する任である。事実、翌年には正式に関東管領に就任し、名も上杉に改めているためそうした事情があったと推測できる。


※北条氏康像 撮影 gunny

約十万の兵を率いて小田原城に迫った長尾軍だったが、対する北条軍は篭城線に持ち込む。包囲は一ヶ月も続いたが、長期戦に耐え切れなくなった長尾軍は兵を退いたと言う。
1568年には、上杉氏と和睦が成立した武田信玄が北関東勢力と同盟を結び、小田原城を包囲したが、やはり撤退している。
このように戦国の屈強な軍勢を相手に、一度も落城を許すことはなかった。

※秀吉の小田原攻め 撮影gunny

小田原攻めとその後

1590年、豊臣秀吉は天下統一の最後の障害であった北条氏に兵を向けた。世に言う小田原征伐であり、その規模は数十万と言われる。

相模湾の小田原沖には海を埋め尽くすほどの船が並べられ海面が見えなかったと伝えられ、海上封鎖だけを見てもいかに規模が大きかったかが分かる。豊臣本隊は小田原城を見通せる石垣山に一夜城を造るとそこに陣を張り、篭城する北条に対して静観する構えを取った。結果、3ヶ月に及ぶ篭城の末に豊臣秀吉はほぼ無血で小田原城を開城させたのである。それはあまりに大きな物資の違いがあったからだ。一説によると豊臣本陣では宴会を開くほどの余裕もあったといわれる。

一方、北条側は5代・北条氏直が当主であったがすでに一枚岩とは言えなくなっており、降伏か徹底抗戦かの議論が仇となり最終的には降伏することとなった。


※天守閣より石垣山を見る 撮影gunny

一番手前の山のほぼ中央が一夜城跡

戦後、小田原城を含む関東の領土は徳川家康に与えられ、江戸時代になるとその規模も縮小された。

明治になり各地の城が取り壊されるようになると、小田原城もほとんどの建築物が取り壊されたが、明治34年には城内に小田原御用邸が置かれることとなる。この御用邸は関東大震災により被害を受けたために廃止されたが、震災により崩れた石垣の一部は今も城内に残っているのだ。


※崩れた石垣  撮影gunny

最後に

現在まで豊臣方から見た小田原城のエピソードは有名だが、北条方からのものは少なかった。

しかし、豊臣秀吉の軍勢を前にしてすら直接攻め込ませることはさせず、無血開城という最後を迎えた小田原城。つまり、直接武力で落城させたものはいなかったのだ。
それほど堅牢だったということだろう。
このような城が関東にもあったということを知ってもらえれば幸いである。

 

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