柳生石舟斎とは
柳生石舟斎(柳生宗厳)は、柳生新陰流の開祖、ドラマや映画で描かれる「柳生一族」の元を作ったとされる剣豪である。
徳川幕府が260年余り泰平の世を支える土台となった「柳生新陰流」は柳生石舟斎とその息子の柳生宗矩が築いたのである。
剣術と共に生きた剣豪・柳生石舟斎について調べてみた。
柳生家の運命
柳生石舟斎は、柳生の庄(現在の奈良県柳生町)の領主・柳生家厳の嫡男として生まれた。
また、生まれた年号は大永7年(1527年)または享禄2年(1529年)の二つの説がある。諱は宗厳、通称は新介、新次郎、新左衛門、右衛門、入道して石舟斎と号したのだ。
柳生家は、あの菅原道真の直系であるとも言われている。
石舟斎は、若い時から剣術を好み、戸田一刀斎(鐘巻自斎)から冨田流を、神取新十郎から新当流を学び「五畿内一の兵法者」と呼ばれるまでになった。
石舟斎が生まれた頃の柳生家は戦乱の中で争いが絶えず、石舟斎17歳の天文13年(1544年)に筒井順昭の攻撃を受け柳生城は陥落して筒井の軍門に下る。
石舟斎32歳の永禄2年(1562年)には、柳生家は筒井を裏切り松永久秀についた。
石舟斎は、若い時から多くの戦いに明け暮れ数々の武功を上げるが、松永久秀は織田信長に敗れて自害。その後天下を取った豊臣秀吉から柳生家本領安堵の沙汰を受け、秀吉の実弟である豊臣秀長の組下に配置される。
しかし、太閤検地で隠し田が見つかり領地を没収されるなど、激動な戦国時代を生き抜く小国として波乱万丈の人生を過ごすのである。
上泉信綱との出会い
上泉信綱とは、陰流、神道流、念流などをおさめ、特に陰流に新たな工夫を加えた「新陰流」兵法をあみだし、後に「剣聖」と謳われる塚原卜伝と並び称される剣豪だ。
石舟斎36歳の永禄6年(1563年)に信綱は、伊勢の国主・北畠具教のもとに立ち寄った時に彼から胤栄や石舟斎の話を聞き、奈良興福寺の宝蔵院で彼らに出会ったという。
石舟斎は信綱との試合を望んだが、信綱から弟子の鈴木意伯と立ち合うように言われ、3度立ち合ったが石舟斎は完敗したのだ。
ただ、この時立ち会った相手は、鈴木意伯ではなく一番弟子の疋田農五郎だったという説や信縄本人だったという説もある。
信綱は、石舟斎の熱心さや誠実さに惹かれたのか、翌朝から石舟斎と3日続けて信綱自身が立ち合う。自然体で隙だらけに見える信綱に電光石火の竹刀を振り下ろす石舟斎。
しかし、次の瞬間あっけなく小手をあびて竹刀を落としてしまうのだ。
3日間一度も勝てなかった石舟斎は、信綱に入門を志願し快諾されて、信綱は柳生の庄で半年間も留まって教えた。
信綱は、足利13代将軍で剣豪でもある足利義輝と謁見するために一番弟子の疋田農五郎を柳生に残し、出発する際に石舟斎に一つの課題を与える。
それは「無刀の位」。武器を持たぬ身で一瞬にして相手の武器を取り上げて敵を制圧する剣技の完成形である。刀に頼らず勝を得る究極の技であり、信綱自身も完成させていない剣技であった。
永禄8年(1565年)、再び柳生の庄を訪れた信綱に石舟斎は課題の「無刀の位」を披露した。
打太刀は鈴木意伯。真っ向から石舟斎に電光石火の一撃を!と思った瞬間にすらりすらりと意伯の打ち込みをすり抜け、さっと両者の体が入れ替わった瞬間、意伯の剣は石舟斎に握られていたのだ。
石舟斎は無刀取りの完成形を信綱に披露したのである。
信綱は、石舟斎に新陰流の極意を全て相伝して新陰流二世の印可状を与えるのである。
無刀取りに関しては、柳生家に伝わる伝書に「無刀とは刀に執着せず武器を選ばぬことであって、たとえ武器がなくても慌てず騒がぬ境地に至ること」と記されており、まったくの素手で立ち向かうということだけを言っているわけではないようだ。
徳川家康も入門
文禄3年(1594年)、石舟斎の噂を聞いた徳川家康は黒田長政を通じて石舟斎を招いた。石舟斎は5男の柳生宗矩を伴って家康の前で剣技を披露した。
打太刀は宗矩、石舟斎は両手をだらりと下げ武器を持たない。気合と共に宗矩の閃光の一撃が振り下ろされる。石舟斎が木刀の下で片膝をつくと同時に木刀は地面に落ち、宗矩の喉元には石舟斎の拳が入っていた。
これを見た家康は石舟斎との立ち合いを望む。
家康の気迫の一撃が振り下ろされた瞬間に石舟斎は体を沈ませ木刀の柄を取り、剣を跳ね上げ家康の左腕を左手で制圧して、右の拳で胸を突き倒せる態勢のままで止められていた。
感服した家康は石舟斎に入門を申し出るも、石舟斎は「ご覧のごとく我が身は老齢。代わりに心血注いで仕込んだせがれの宗矩をお召し出し下されば望外の幸せ」と言った。
家康は、すぐに入門の誓紙を書き宗矩に知行200石と備前長船・景則を与え旗本に取り立てたのである。
まさに柳生一族にとってこの日は運命の出会いとなった。
この頃は太閤検地で所領を没収されて生活に困窮している時期だったが、宗矩は徳川の剣術指南役になり二代秀忠・三代家光の指南役も務め、1万2000石の大名まで出世する足掛かりとなった。
高齢を理由に家康の入門を断った石舟斎だが、実は毛利輝元にも兵法を指南していた。
石舟斎は徳川・毛利両家から扶助を受けており、まさに石舟斎は戦国時代をうまく生き抜くすべを知っていたのかもしれない。
関ヶ原の戦い
関ヶ原の戦いでは、石舟斎と宗矩は家康の命を果たした。
宗矩は畿内の諸大名たちへの諜報・調略に、伊賀と甲賀の忍者を活用した。石舟斎の孫であり宗矩の甥である柳生利厳(後の尾張柳生兵庫助)とも裏工作などで連携し、徳川家に対して大きな功績を上げた。
この時の柳生の情報収集過程が後世の「裏柳生」と呼ばれる情報機関の原型ではなかったかと考えられる。
関ヶ原の戦いに勝利した家康は、石舟斎・宗矩親子を高く評価して、先祖代々の旧領・柳生の庄一帯の2,000石を石舟斎に与えた。
江戸柳生と尾張柳生
宗矩が江戸で後の「江戸柳生」の地盤を固めていた頃、柳生の庄では柳生利厳が剣の筋を見込まれて、石舟斎自ら孫に剣術を指南する。
慶長8年(1603年)利厳は熊本藩主・加藤清正に仕官し、石舟斎は利厳に「新陰流兵法目録事」を与えた。
しかし、利厳は1年足らずで加藤家を致仕して廻国修業の旅に出るのである。
翌年、石舟斎は旅先の利厳に皆伝印可状を送り、柳生の庄に戻ってから自筆の目録「没慈味手段口伝書」と大太刀一振り、上泉信綱から与えられた印可状と目録一切を授与して、利厳は新陰流三世となった。
政治を志した5男・宗矩を兵法者として認めなかったのか、若年で負傷した長男厳勝の子・利厳が不憫だったのか、単に剣術の腕なのか、新陰流三世は利厳となった。
利厳は、後に尾張藩主・徳川義直の指南役として仕え、柳生兵庫助となる。その3男・厳包は柳生きっての剣豪となるのだ。
こうして尾張柳生家が新陰流の正統となり、現在も継承されているのである。
慶長11年(1608年)、石舟斎は78歳で病死する。墓所は柳生の庄の芳徳禅寺となった。
晩年は柳生一門に「剣の心・人の心の在り方」を伝える書を残した。
石舟斎が亡くなった翌年に隻眼の剣豪・柳生十兵衛が生まれ、石舟斎の生まれ変わりと呼ばれることとなる。
石舟斎の逸話 一刀石
奈良県柳生町に「一刀石」という約7m四方の巨大な石が中央から二つに割れている石がある。
この石は、石舟斎が修業中に天狗がいたので試合して、一刀のもとに天狗を切り捨てたと思ったが巨石を二つに割っていたとされるもので、実際に残っているのだ。
最近人気の漫画「鬼滅の刃」にも同じようなシーンが登場し、一刀石は人気の観光地となっているのである。
おわりに
柳生石舟斎は、若い時から剣術を磨き「五畿内一の兵法者」としてやんちゃな振舞いが多かった。
そんな石舟斎は上泉信綱に完膚なきまで負け続け、36歳で弟子入りして「無刀取り」を完成させ新陰流二世となった。
その噂を聞いた徳川家康に取り立てられた息子・宗矩は大名にまで出世して「柳生新陰流」は天下の兵法となる。
柳生石舟斎の剣術に対する貪欲な姿勢が、戦国乱世で運命に翻弄された柳生一族を救うのである。
あの宮本武蔵が天下無双を目指して柳生の里に行った時、石舟斎は70歳を過ぎたおじいさんなのに武蔵がそのオーラ(怖さ)に圧倒されて打ち込めなかったという逸話がある。
石舟斎に会う前に奈良の宝蔵院を訪れた武蔵は宝蔵院胤栄にも同じようなオーラ(怖さ)を感じたという。
では、彼らの師である上泉信綱とは一体どのような人物(剣豪)だったのか?とても興味が沸きます。
宮本武蔵が目指した「天下一」、剣聖の塚原卜伝や上泉信綱は死んで柳生石舟斎か雲林しかいないのに宮本武蔵は柳生の里と宝蔵院を目指したが、両者ともお爺ちゃんで戦わなかった!当然だが上泉信綱の四天王がいたのに何で戦わなかったのだろうか?柳生にはいったのにどうして十兵衛や宗矩や三代をついた利厳と正式にやったのか?
ただ、武蔵は何度も尾張に行っている。もしかして利厳と勝負したかったのかなあ?
実は兵庫助と武蔵は一戦かわしているんではないかという説もあるが、不明だ。
尾張に何度も行って二刀流の円明流を教えた武蔵は新陰流三世・利厳と戦っていたような気がしまう。
歴史って面白いですよね。