富田勢源とは
冨田勢源(とだせいげん)とは、中条流(ちゅうじょうりゅう)の正統として冨田流(とだりゅう)を広めた剣豪である。
眼を患いほぼ盲目であったが、三尺四寸(約103cm)の長太刀(木刀)を持った巨漢の相手に対し一尺二寸(約36cm)の薪で勝負を挑み、あっという間に倒したと伝えられている。
富田勢源は短い太刀の使い手であったが、長太刀「物干し竿」の佐々木小次郎の師ともされている。
今回は越前・朝倉氏に仕えた心眼の剣豪・富田勢源について迫る。
出自
富田勢源は越前国の朝倉氏の家臣である冨田影家(とだかげいえ)の長男として生まれた。※生年については不詳だが大永3年(1523年)という説がある。
名は五郎左衛門、剃髪してから「勢源(せいげん)」と号し、富田五郎左衛門勢源とも、また戸田清元(吉方)とも呼ばれる。
※ここでは一般的に知られる勢源と記させていただく。
勢源の祖父・富田長家は、中条流(ちゅうじょうりゅう)の正統継承者・大橋高能(おおはしたかのり)から学び、景家(勢源の父)へと伝わり、長男・勢源と次男・景政(かげまさ)へと継承されていった。
幼い頃から中条流の英才教育を受けた勢源は中条流の使い手として名を馳せ朝倉氏に仕えたが、30歳を過ぎた頃に眼病を患ってしまい、剃髪して家督を弟・景政に譲った。
中条流と冨田流
中条流の創始者・中条長秀(ちゅうじょうながひで)は、家伝として伝わっていた「平法」「中条家流」と呼ばれた刀術の使い手で、念流(ねんりゅう)の開祖・念阿弥慈恩(ねんあみじおん)に学び「念流十四哲」の一人とされる人物である。
中条家は長秀のひ孫・満秀の代で断絶したが、流儀は長秀から甲斐豊前守広景へ継承され、その門人・大橋勘解由左衛門高能から山崎右京亮昌巌へと伝わった。
しかし、昌巌が戦死したため昌巌の弟子・富田長家(勢源の祖父)が後見人として昌巌の子・山崎右京亮景公と山崎内務丞景隆へと中条流を伝えた。
さらに前述したとおり、富田長家からその子・景家(勢源の父)そして長男・勢源と次男・景政と代々富田家で中条流を継承し発展させたことから、一般的に中条流は「富田流(とだりゅう)」と呼ばれるようになった。
だが、富田家・山崎家や富田家に次ぐ師範家の関家では「富田流」とは呼ばずに「中条流」として伝承した。
中条流は短い太刀を使う剣術として有名であり、「柔よく剛を制す」を基本とし、「平法(へいほう)」と呼ぶ武の威徳によって災いを未然に防ぐことを本意とした流派である。
山崎家と富田家の関係は深く、勢源の弟・景政は時の関白・豊臣秀次に剣術を指南したほどの達人であったが、跡を継ぐはずだった息子が戦死したために山崎家の重政が景政の娘と結婚して婿入りし、冨田重政として中条流の跡を継いだ。
富田重政は加賀藩の前田利家・利長・利常と三代に渡って仕え「名人越後(めいじんえちご)と呼ばれた。
美濃での決闘
永禄3年(1560年)勢源は、主君・朝倉義景の叔父である朝倉成就坊を訪ねて美濃国の稲葉山城下に暫く滞在していた。
この頃、美濃国は斎藤道三を討った息子・斎藤義龍が領主となっていた時期である。
斎藤義龍の剣術指南役で新道流の達人・梅津某は、冨田流・中条流随一の小太刀の使い手として知られた勢源が美濃国に来ていると聞き、その腕前を見たくてたまらなくなった。
そこで門弟を使いに出して勢源に試合を申し込んだのだが、勢源は「眼病を患っている私の腕前などたいしたことがないので、小太刀の技が見たかったら越前に行ってはどうか」と、つれない返事をした。そもそも中条流は他流試合を禁止されており、軽々しく試合はできなかった。
この態度に腹を立てた梅津は「所詮、勢源なんて恐れるに足らん奴だ。なにせ私は試合となったら主君でも容赦はしない」と暴言を吐いてしまった。
これに黙っていなかったのが「主君でも容赦はしない」と言われた領主の斎藤義龍である。自分の剣術指南役とはいえ怒り心頭で、義龍自ら勢源に試合を受けるように要請したのである。
さすがの勢源も「義龍自らの願い」いや「命令」ならば受けない訳にはいかない状況となってしまった。この頃、勢源の眼はほとんど見えていなかった。
永禄3年(1560年)7月23日午前7時、試合の場所は検視役を務める武藤淡路守の屋敷の庭先であった。
この日、巨漢の梅津はソラ色の小袖に木綿袴で三尺四寸(約103cm)の刀を手に現れた。
その気色、まるで龍が雲を惹き虎が風に向かうが如く眼は電光に似ていたという。
対する勢源は柳色の小袖に半袴を着て立ち、武藤家の屋敷に無造作に積んでいた一尺二寸(約36cm)の割木に皮を巻いた薪棒を持った。
薪木刀を掲げて悠然として立つ風情は、牡丹の花の下の眠り猫にも見えたという。
眼病を患った勢源と巨漢の梅津を見比べるとその優劣は誰が見ても梅津にあったようである。さらに梅津は勢源に「真剣で立ち会うように」と催促した。
しかし、勢源は「貴殿は白刃でどうぞ。私はこの薪棒でよろしゅうござる」と返したという。
それを聞いた梅津は木刀に対して真剣では勝負が穢れるとして、自身も木刀に持ち替えた。
ついに試合が始まると、梅津はあっさりと小鬢から二の腕まで打たれ、頭も討たれて体中が血に染まってしまった。
梅津は倒れそうになりながらもなんとか勢源の足下に一撃を打とうとしたが、勢源はその木刀を踏み折ったという。
なおも梅津は懐中の脇差を抜いて突きかかったが、勢源はそれをかわし、頭上に一撃を放ち倒してしまったのである。
この話を聞いた義龍は、勢源に褒美を与えて自らのもとに留め置こうとした。
しかし勢源は「中条流は勝負差止めでござるけれども、領主の命背き難きことでござるによって敢えてこれをなした儀。故に御賞美とあって下されるものは受納なり難し」と、義龍の再三に渡る申し出を断り、越前に帰ってしまったという。
弟子たち(佐々木小次郎の師?)
富田流の開祖には、戸田・外他・晴眼・清元・青眼などの字が違うが読みが「トダセイゲン」である人物が存在するが、おそらく富田勢源であろうと言われ、多くの流派で開祖とされている。
弟子には「名人越後」と称された富田重政、林田左門(林田派)、北条氏邦(北条氏政の弟)、戸田綱義(二代目)、杉原無外(戸田金剛流)、内海重次(内海流)、川崎鐺之助(東軍流)土屋宗俊、明石重明、山口宗勝らがいる。
後に一刀流の開祖となる伊藤一刀斎の師・鐘巻自斎(鐘巻流)も勢源の弟子だとされているが、弟・景政の弟子だという説もある。
宮本武蔵の伝記「二天記」によれば、勢源は佐々木小次郎の師であるとされている。
※この説によると巌流島の決闘の時に佐々木小次郎は70歳近くの老人となる。また小次郎は鐘巻自斎の弟子であるという説もある。
真意は定かではないが、小太刀の達人・勢源の弟子である佐々木小次郎が長太刀の達人というのも面白い話である。
おわりに
富田勢源が、眼病を患いほとんど眼が見えなかったのに一瞬のうちに巨漢の梅津某を倒してしまったという逸話は「中条流・富田流」だけではなく、美濃国から全国に知れ渡った。
越前・朝倉氏に仕える心眼の剣豪・富田勢源は、褒美も受け取らずに越前に戻り、多数の有名な門弟を育て上げ伝説の剣豪となったのである。
遂に来ましたよ!盲目の剣豪・富田勢源、目が見えないのに相手の動きを察知するまるで座頭市のような男
きっと斎藤義龍から高い金を提示されたのに仕官を断る、目が見えない私に金はいらないという男気がある男である。
私も片目失い、空手好きな老人ですが来世で冨田剣聖さんに近付きたいです
あの佐々木小次郎は巌流島の決闘の時70歳を過ぎていて、実は佐々木小次郎は武蔵と決闘していない、違う小次郎という青年が巌流島で武蔵と決闘したとされる説が最近は有力です。
小次郎の燕返しは越前で生まれ、富田勢源の弟子説がかなり強く主張されています。
そうすると鐘巻自斎との関係性も整合するし、伊藤一刀斎と会ったことも納得がいきますね。