戦国時代

『戦国時代』 武士たちは戦中の食事やトイレなどはどうしていたのか?

戦国時代は、15世紀後半から16世紀後半にかけての日本史上における動乱期であり、様々な戦国大名や武将たちが領土争いを繰り広げた時代である。

全国さまざまな場所で常に戦が繰り広げられていたが、武士たち合戦中には何を食べ、どうやって用を足したのだろうか。

今回は戦の最中の食事や用足し、連絡手段についても触れていきたい。

戦中の食事

武士たちは戦中の食事やトイレなどはどうしていたのか?

画像 : 荷宰料足軽 雑兵物語 public domain

合戦中に武士たちはどうやって食事を摂っていたのだろうか?

武士たちは基本的に「腰兵糧(こしびょうろう)」という、腰につけて携行する当座の兵糧(食糧)が入った袋を持っていた。
おおよそ3日分の食糧がその袋の中に入っていたという。

その中身はどんなものかというと、オーソドックスな握り飯もあれば、炊いた米を干したもの、生米を炒って今のスナック菓子のようにポリポリ食べられるものや餅もあった。

また兵糧玉(ひょうろうだま)や、兵糧丸(ひょうろうがん)と言われるお団子もあった。

画像 : 兵糧丸 イメージ

これは、米に「きな粉・魚粉・梅干し」などを混ぜて固めたもので、現在でいうとカロリーメイトのようなものであろう。
これを食べればすぐにエネルギーチャージができる優れものだった。

他には「芋がらの茎」なども携帯していた。

画像 : 芋の茎縄 イメージ

これは里芋の茎をねじって縄状にして、醤油や味噌で煮込んで乾燥させたものだ。
これをどこかに縛っておき、必要な時にちょんと切って食べたという。
しかもお湯に入れると味噌汁の代わりにもなったのだ。

驚くべきことに合戦がひと段落すると、屋台のような物売りもやってきて雑炊などを売っていたという。
兵たちにとって戦は命のやり取りをする場所だが、商売人にとって戦はビジネスチャンスだったのだ。

この物売りの人たちは、弁当を持って山の上から戦場見物を行い「今はこっちの軍が有利だ」などと楽しみながら観ていたという。

戦中のトイレ

合戦中に突然尿意や便意が起こった場合、重たい甲冑を着ていた武士たちはどのように対処していたのだろうか?

一説には、竹筒を袴の脇にある三角のスペースから入れて、筒を通して用を足していたという。

イメージ

また、合戦の時に履く袴は又の部分が切れていて、素早く小用も足すことが可能で、しかもしゃがむと左右に開くようになっていたという。
実際には竹筒をわざわざ使わず、袴を履いたままさっと用を足す者が多かったようだ。

合戦の最中にのんびりとしゃがんで用を足せば、その間に敵に首を取られてしまうかもしれないので、しゃがんで用を足す者は少なかった。
現代の私たちもいざという場合になると、それまで催していた尿意が止まることがある。

武士(兵)たちは合戦中に「あっヤバイ」となっても、何とか耐えられたのではないだろうか。

合戦前には水分を余り摂らないなどの対策はしていたはずで、さらに合戦中は汗を大量にかくので、むしろ水分不足気味だったと考えられる。

大きい方はさすがに機を見て、しゃがんでするしかなかったのではないかと言われている。

しかし、徳川家康武田信玄との三方ヶ原の戦いにおいて大を漏らしたという逸話があることから、たとえ大将でも緊急時にはしゃがんでいる暇すらなかっただろう。

徳川家康は本当に脱糞していたのか? 〜 戦国三英傑の逸話
https://kusanomido.com/study/history/japan/azuchi/51461/

戦国時代の連絡手段

合戦中の情報の伝達は、どのように行われていたのだろうか?

武田信玄上杉謙信と戦った川中島の戦いでは、武田軍は上杉軍が出陣したことを「狼煙(のろし)」で遠方の味方に知らせたと甲陽軍鑑に記載されている。

画像 : 第四次川中島の戦い public domain

川中島から信玄のいる甲府までの距離は約150kmだが、その情報は次々と狼煙でリレーされ、なんと約2時間後には甲府の信玄に伝わったという。

しかし狼煙は「相手が今出陣した」など、少ない情報しか伝達することができず、具体的な情報は手紙(書状)を送るしか手段はなかった。

戦国時代以前から専門の飛脚はいたが、当時は街道が整備されていないので、飛脚のスピードはそれほど早くはなかった。

しかし、道が整備された江戸時代の飛脚は、江戸から京都までの約500kmを一番高い料金を払えば、なんと3日間で走り抜いたという。
だいたい10km単位で飛脚が交代してリレーし、宿場もきちんとあったからである。

当時最速なのは早馬ではなく飛脚であった。

しかし群雄割拠の戦国時代は、領地の境目にあちこちと関所があり、そこで捕まって敵に情報を奪われてしまうことも多かった。

あの豊臣秀吉本能寺の変を知ったのも、信長が本能寺で討たれたという書状を持って毛利家に届けようとしていた間者を、秀吉の兵たちが偶然捕らえたからである。
もしその間者が捕縛されなかったら、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

そのため戦国時代は飛脚ではなく、信用できる忍者・修験者・山伏などを使ったという。
彼らは普段から山道を歩くことで鍛えられており、街道を通らずに山道を突っ切れたので関所に見つかることもなく、飛脚よりも早かったのだ。

終わりに

戦の最中は甲冑もつけていたため、武士たちは何をするにも不自由だっただろう。

戦国時代によく着られていた当世具足は8~10kgほどで、これを着て山城などを攻めたり、戦場を駆け巡ったのだからかなり疲れたはずだ。
それでも戦国時代は軽くなった方で、鎌倉時代初期の鎧は約20kgもあったという。

このように戦国時代の武士たちは試行錯誤しながら戦い、生き抜いていったのだ。

 

アバター

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2025年 3月 11日 1:18pm

    竹筒はほと筒とも呼ばれて小水をいれていました。
    合戦が始まると尿意は止まると言いますが、装備を整えて合戦までの間に使用されていたそうです。
    合戦中に傷を負うと傷の汚れを流して消毒するのにかけたり、水分補給で引用ともしていたそうです。

    2
    0
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 津軽為信 ・津軽の梟雄【奇策でのし上がった戦国大名】
  2. 上杉憲政について調べてみた【上杉謙信を誕生させた大名】
  3. 細川藤孝 「本能寺の変後に光秀を見限った文武両道のエリート武将」…
  4. 陶晴賢(すえはるたか)下克上で主君を倒すも毛利に敗れた武将
  5. 石見銀山とは 【日本最大の銀山 ~戦国武将たちの壮絶な争奪戦】
  6. 太田道灌について調べてみた【江戸城を最初に作った人物】
  7. 関ケ原の戦い以降の長宗我部氏と土佐について
  8. 赤備えを用いた戦国武将たち 「異常に強かった恐怖の軍団」

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

楠本イネについて調べてみた【日本初の女性産科医】

楠本イネとは  (くすもと いね)、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した日本人医師である…

山東京伝(古川雄大)と結婚した遊女たち 〜その悲劇的すぎる末路とは【大河べらぼう】

戯作『御存商売物(ごぞんじしょうばいもの)』で一躍売れっ子作家となり、多くの名作を世に出した山東京伝…

【中居氏の女性トラブル】なぜ人々は週刊誌(噂話)に熱狂するのか?人類学と脳科学から考える

タレントの中居正広氏(52歳)が、女性とのトラブルをめぐり、9000万円の示談金を支払ったと報じられ…

塙団右衛門について調べてみた【大名になるため、あの手この手を尽くした武将】

猪と揶揄された 塙団右衛門新年号を迎える2019年の干支は猪である。猪というと何も考えず…

2050年までに32の米国の主要都市が「海面上昇」の深刻な危機

新しい研究によると、地盤沈下と海面上昇により、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、ニュ…

アーカイブ

PAGE TOP