関ヶ原の戦い
およそ100年も続いた戦国時代に終止符を打ったのは、慶長5年(1600年)9月15日に行われた「関ヶ原の戦い」である。
明治時代初期、陸軍大学校の教官に招かれて来日したドイツ人の軍人・メッケル少佐は、関ヶ原での東西両軍の布陣を見るやいなや「西軍の勝ち」と即座に答えたという。
石田三成が率いる西軍8万4,000の軍勢と、徳川家康が率いる東軍7万4,000の軍勢が合いまみれたこの戦いだが、実際に勝利したのは兵の数に劣り、布陣が圧倒的に不利だった東軍だった。
その勝因は西軍の4人の武将(小早川秀秋・島津義弘・毛利輝元・吉川広家)たちの裏切りにあったと言っても過言ではない。
今回は、この4人にスポット当てて「関ヶ原の戦いの裏切り」について前半と後半にわたって解説する。
どの人物の裏切りが西軍に最もダメージを与えたのだろうか?
小早川秀秋
慶長5年(1600年)9月15日午前6時、深い霧の中で総勢約15万以上の強者たちが睨み合っていた。
そして午前8時、遂に天下分け目の戦いの火ぶたが切られる。
一進一退の攻防が続くこと2時間、早く膠着状態を打開したい西軍の石田三成は、松尾山に陣を敷く小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図した。
しかし、小早川の兵たちは動かなかったのだ。
再三の出撃命令にも関わらず一向に動こうとしない秀秋に、三成は苛立っていた。
この時、秀秋に苛立っていた男がもう1人いた。
その男は、東軍の総大将・徳川家康である。
実は秀秋は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていた。
戦いが始まって4時間後の正午、業を煮やした家康は小早川軍に向って鉄砲を撃ち込ませた。
世に言う「家康の問鉄砲」だ。
秀秋はこれに怯み、寝返りを決断し、味方である西軍に襲い掛かった。
以上が通説となっている。
しかし、実は家康が陣を敷いた平地から、小早川軍が布陣した松尾山までの距離はおよそ1.5kmほどある。当時の火縄銃の有効射程距離がおよそ100mだとすると弾は全く届かないのである。
大砲だったという説もあるが、大砲だったとしても当時の飛距離は500mほどである。
秀秋は、発射音にひるんだのだろうか?
あるTV局が、地元の関ヶ原鉄砲隊の人たちの協力を得て、当時の大砲のレプリカを使って実験を行っている。
松尾山に人を待機させて実験をすると、大砲を撃ってから5秒後にかなり小さな音しか聞こえなかったのだ。
その上、戦では怒号や銃声が飛び交っているので、字際に音はほとんど聞こえなかったと思われる。
「問鉄砲」のエピソードが後世の創作だったとすると、なぜ秀秋は寝返りを決断するのに4時間もかかったのだろうか?
秀秋は、西軍が勝ったら「関白の地位」「上方の2か国を加増する」という褒賞を約束されていた。
家康とも内通していたが「東軍・西軍どちらにつくのか、ギリギリまで戦局を伺っていた」と思われる。
そもそも秀秋は、なぜ家康と内通したのだろうか?
裏切りの理由① 豊臣秀吉への恨み
豊臣秀吉の正室「ねね」の甥である秀秋は、3歳の時に秀吉の養子となり、「ねね」の手で大切に育てられ、一時は周囲からも次の後継者とも見られていた。
ところが、秀吉に実子・秀頼が誕生すると状況が一変し、13歳の時に有力な大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまったのである。
更に秀吉のもう1人の養子・豊臣秀次が謀反の嫌疑をかけられた「秀次事件」に秀秋も関与したと疑われ、丹波亀山10万石を没収されていることから、秀吉を恨んでいた可能性もある。
裏切りの理由② 石田三成への憎しみ
丹波亀山を没収させられた秀秋だったが、その後、養父・隆景から領地の1部である筑前・筑後など33万石を受け継いだ。
その後、秀吉の命で朝鮮に出兵したが、帰国すると突然越前北ノ庄15万石に減転封を命じられた。
一説によると五奉行の三成が、朝鮮での秀秋の失敗を秀吉に大げさに報告したと言われている。この件で秀秋は三成を恨んでいた。
しかし秀吉の死後、家康の取り成しによって筑前・筑後の元々の領地を取り戻すことができた。
その恩があり、秀秋の心は当初から「東軍」にあったと言われている。
また、家康は関ヶ原の戦いの途中に、自らの本陣をより前線に近い場所へと前進させている。
これを見た秀秋は「東軍が優勢」と判断し、裏切りを決断したのではないかと考えられている。
秀秋率いる1万5,000の大軍勢が東軍に寝返ったことで、近くに布陣していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保が、便乗するように次々と寝返っていった。
秀秋の寝返りをきっかけに東軍は一気に優勢となり、家康は全軍に総攻撃を命じた。
すぐに西軍は大混乱に陥り、たったの2時間後には東軍の勝利が確定したのである。
島津義弘
小早川秀秋が寝返ったことで、西軍は大混乱に陥った。
三成は、後方で戦いを傍観していた薩摩の島津義弘に出陣を求めたが、義弘もまったく動かなかった。
島津軍は、朝鮮出兵では7,000の兵で20万とも言われる明・朝鮮連合軍を破るなど、勇猛果敢なことで名を馳せていた。
しかし、関ヶ原の戦いに参戦したのはわずか1,500人の兵だった。
この時、義弘は島津家当主の兄・義久と対立し、島津家は2分していたのである。
島津家の実質的な決定権は兄・義久が持っていた。
義久は反豊臣派で「できるだけ中央政権と距離を置いた方が、島津家のためになる」と考えており、義弘に軍勢を送ることを渋ったのだ。
こうして薩摩からは義弘の家臣たちだけが駆け付け、1,500人という少兵になったのである。
島津義弘は「鬼島津」と呼ばれるほどの猛将だったが、この時もう66歳であり、戦況を見て「1,500の兵で戦っても勝ち目はない」と判断していた。
裏切りの理由は三成との確執か?
前日の9月14日、西軍は大垣城に、東軍は中山道の宿場町・美濃赤坂宿付近に陣取っていた。
杭瀬川を挟んで前哨戦が繰り広げられたが、結果は西軍の大勝で兵たちの士気は大いに上がった。
そこで義弘は、三成に「勢いをそのままに夜襲をかけてはどうか?」と提案したが、三成は島左近の意見を取り入れて「夜襲はかけぬ」と答えた。
この時、三成は「東軍が大坂に向かう」という情報を掴んでいた。
それを阻止しようと先回りをしたかったのだ。
その結果、関ヶ原で待ち構えることになる。
また、島津軍の兵が余りにも少ないため、頼りにならないと三成は思っていた。
その前にあった墨俣の戦いでも、三成は義弘に何も知らせずに島津軍を置き去りにした。
その為、義弘は三成に対して不信感を抱き、三成の出陣要請に頑として応えなかったのである。
東軍の勝利が確定した後、島津軍は東軍の並み居る軍勢の中を強行突破した。
上記画像のように敵陣真っ只中の中央突破であり、さらにこの時、兵数は300程に減っていた。
有名な「島津の退き口」である。
甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出したが、義弘は命からがら80余名と共に薩摩に生還したのである。
後編では、毛利輝元、吉川広家の裏切りについて解説する。
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