どうする家康

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった 〜前編 「西軍についた毛利輝元は実はやる気満々だった?」

関ヶ原の戦いとは

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった

画像 : 関ヶ原合戦屏風 public domain

慶長5年(1600年)9月15日、徳川家康が率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が、美濃国関ヶ原を主戦場として激突した。

総勢20万、戦国時代の一大決戦と言われた「関ヶ原の戦い」である。

しかしこの一大決戦は「わずか半日で東軍が勝利した」とされている。

とはいえ合戦に至るまでに全国の戦国大名たちの凄まじい駆け引きがあり、中には切り裂かれた密書もあったと言われている。

今回は、戦国最大の情報戦でもあった関ヶ原の戦いについて、前編と後編にわたって掘り下げていきたい。

7月上旬の情報戦

関ヶ原の本戦は9月15日だったが、2か月前の7月から東西両軍は激しい情報戦を展開していた。
その武器は刀でも槍でも鉄砲でもなく、「筆」つまり「手紙=書状」であった。

奈良大学の外岡慎一郎教授は、関ヶ原の戦いを書状から分析している。
そしてNHKが協力し、局内に特別な研究チームを作り、関ヶ原の戦いの前に交わされた書状をデータベース化することに成功した。
関ヶ原の戦いの2か月前から全国の諸大名に送られた書状は、約500通だったという。

それにより、北は津軽から南は薩摩まで、実際の戦いの前に激しい情報戦が繰り広げられていたことが分かった。
それでは一体、全国の諸大名たちはどのような駆け引きを行なっていたのだろうか?

7月上旬、関ヶ原の戦いのきっかけとなる事件が起きる。
豊臣家の重臣・石田三成が、徳川家康を討つために挙兵したのである。

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった

画像 : 石田三成 public domain

しかし、三成が家康と戦うには大きな兵力の差があった。

家康は250万石を有する当時No.1の大名であり、対する三成は19万石で家康の10分の1にも至らなかった。

しかし三成には策があった。それは

「西国の雄、120万石を有する毛利輝元を西軍の総大将にして、味方に引き入れる」

というものであった。

毛利輝元の祖父はあの有名な毛利元就だが、輝元自身は優柔不断な性格であったと言われている。
通説では、「三成の挙兵計画に巻き込まれ、西軍の総大将に担ぎ上げられた」とされ、関ヶ原の戦いでも毛利勢は消極的だったとされてきた。

しかし今回のデータベースで、通説を覆す事実が発覚したのである。

毛利輝元は、やる気満々だった?

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった

画像 : 毛利輝元 public domain

何と三成の挙兵を知った当日に、輝元が書いたとされる書状が見つかったのである。

そこには「7月15日に大坂へ向かって出る」と記されてあり、三成の挙兵を知ったその日のうちに、広島から大坂へ向かっていたことが判明したのである。
輝元の家臣の記録を調べてみると、7月15日に三成の挙兵を知った輝元は、わずか2日後の17日には大坂にたどり着いていた。

つまり、陸路ではなく潮流を計算して、船で大坂入りを果たしていたことが推測できる。
ではなぜ輝元は、急いで大坂に入らなければいけなかったのか?

それはライバルである家康が、この時会津の上杉討伐に備えていたからである。
もし、異変を察知した家康が予定を変更して輝元よりも先に大坂に入ることになれば、三成の計画は失敗に終わるからである。

そのため、輝元は一刻も早く大坂に向い、三成と合流しようとしたのだ。

今までの通説では「毛利輝元は担ぎ上げられた」とされており、もしそれが本当ならば輝元は疑心を抱きながら大坂へ向かったはずである。
つまり消極的であり、そんなに急いで大坂に向かうことはなかったはずだ。

海の潮流を計算して何が何でも早く大坂に向かったということは、この時、輝元は家康と戦う気満々だったということになる。

ではなぜ輝元は、三成の挙兵計画に積極的に関わろうとしたのだろうか?

もし西国全体を統括できれば、日本以外にも中国や朝鮮、東南アジアの貿易を掌握することになる。
特に毛利の領国には、当時世界一と言われた石見銀山があった。

輝元はそれを用いて、貿易で巨万の富を得ようと考えていたのではないだろうか。

書状の数

関ヶ原の戦いは史上最大の情報戦だった

イメージ画像 永禄3年(1560年)霜月27日毛利元就書状 

約500通の書状は、誰が一番送っていたのだろうか?

内訳は、西軍169通に対して東軍312通であった。

そのうち、東軍の半分以上の171通は家康が送ったものであり、三成が送った書状はたった13通だったという。
実際には三成も、家康と同数ほどの書状を送っていたと考えられるが、三成から書状を受け取った諸大名は家康を意識して書状を処分したのではないかと思われる。

江戸時代になると手紙を運ぶ専門の飛脚という職業が生まれたが、戦国時代にはまだ飛脚という専門職は無かった。
しかも群雄割拠の戦国時代では、書状(手紙)などを送るだけでも敵地や敵の領地を通らなければいけなかった。

当時、書状を届ける者は命がけであり、諸大名は何人かの家臣や忍者などに複数のルートから運ばせていたという。
書いた書状が本当に相手に届いていたのか、ということも実ははっきりとは分からなかったはずである。
さらに、その書状がはたして本物なのかという疑問も残る。

今で言うフェイクニュースという事もあり、敢えてフェイクニュースを送る場合もあったという。

7月下旬から8月の情報戦

7月29日、大坂から家康のもとに驚きの書状が届く。

それは石田三成がけしかけ、大坂三奉行(増田長盛長束正家前田玄以)が出した「内府ちかひの条々」で、13か条の家康の悪政非道な弾劾・糾弾する西軍から送られた宣戦布告状であった。

そこには「秀頼様を見捨てた家康を、我々は武力で制裁する」と書かれていた。

この当時、武士の頂点に立っていたのは大坂城の豊臣家で、家康も他の大名と同じ豊臣秀頼の家臣であった。
しかし、大坂城に毛利輝元が入ったことで、三成たち西軍は豊臣家を完全に掌握し、家康を反逆者に仕立て上げたのだ。

こうしてこれまで家康と行動を共にして来た大名たちの中にも、西軍につく者が出る可能性が出てきた。
窮地に陥った家康は、大名たちを引き留めるために、さらに筆を走らせた。

それが書状171通の送付であり、特に8月に入ってからの書状の数は他の月より多かったという。

家康が送った書状はAIに取り込まれ、どのような言葉が多く使われたのかが分析されている。
調べて出て来た単語は

「出馬・油断・相談・上洛・会津・出陣・上方・北国・岐阜・肝要・様子・忠節・庄内・山形・参陣・飛騨・専一・万石・談合・使者」

などであった。

「内府ちかいひの条々」を受け取った後からは「忠節・感悦・満足・心安」など、心情に訴えかける言葉が多く用いられていることが分かっている。

これは家康を支持してくれる諸大名たちに対する返事で、「皆さんのご要望を受け止めるので、戦う時は一緒に戦ってほしい」と、下手に出ていることが読み取れる。

家康は丁重な書状を送り、心情に訴えることで諸大名たちを味方にしようとしたのだ。

きっかけとなった福島正則

画像 :福島正則 public domain

そんな家康が、どうしても引き留めたかった大名が「福島正則」だった。
福島正則は、亡き秀吉のもとで活躍した武勇に優れた武将である。

この時、正則は西軍との最前線である尾張の清須城にいた。
発言力の大きい正則が率先して西軍と戦を始めれば、他の大名たちも従うはずである。

家康は、正則にへりくだりながらも「一刻も早く敵を攻めていただきたい」という行動を促す書状を送った。

しかし正則を味方にしたいのは家康だけではなく、三成も接触を試みていた。
三成や三奉行たちは正則に「自分たちの味方になってくれれば、このような恩賞を与えます」といった旨の書状を送っていた。

正則は「東軍と西軍、どちらにつくべきか?」と悩み、清州城から半月も動かずにいた。

なかなか動かない正則に対して、8月19日、家康は次の一手に出た。
正則のもとに側近・村越直吉を、使者として送り込んだのである。

そして村越は福島らに対し

「清州にいらっしゃる皆様方が出陣なさらぬので、我が主・家康が出陣出来ぬ」

「臆病者とは一緒に戦えない」

と、今までと変わって挑発的な態度に出たのである。

まさに侮辱的発言の極みというべきもので、お前たちは日和見だろうと言ってのけたのだ。

すると正則は「ならば目にもの見せてくれよう!」と出陣を決め、8月23日には西軍の拠点である岐阜城を陥落させた。

これが大きなきっかけとなり、それまで様子を見ていた他の大名たちも雪崩を打って東軍に味方する流れとなった。

そして9月1日、遂に家康が3万の大軍勢を率いて江戸城から出陣した。

これは関ヶ原の戦いの本戦の2週間前であった。

後編へ続く。

 

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