「賽は投げられた」(alea iacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか (et tu, Brute?)」などの特徴的な引用句で、日本でも有名な政治家だが、これらの言葉がなぜ、どのようにして生まれたかを知る人は少ない。
今回は古代ローマ最大の野心家であるガイウス・ユリウス・カエサルについて調べてみた。
ローマからの亡命
※ガイウス・ユリウス・カエサル立像
かのナポレオン・ボナパルトが賞賛した7人の英雄。その中には古代マケドニアのアレキサンダー大王たちに並び、カエサルの名もあった。英語読みの「ジュリアス・シーザー」(Julius Caesar) でも知られる共和政ローマ期の政治家である。
ちなみに「ユリウス」はユピテル(ジュピター)の子孫を意味する氏族名であり、ユリウス氏族のカエサル家のガイウスということになる。カエサルの青年期に当たる前90年代から前80年代はローマが戦乱に明け暮れる時代であり、ローマ国内も政治的に不安定であった。
当時は、民衆派と元老院派が対立しており、元老院派のルキウス・コルネリウス・スッラが、民衆派の抵抗を受けたがローマ市を制圧。紀元前83年に終身独裁官となり、政治的に対立する民衆派をプロスクリプティオに基づいて徹底して粛清した。
終身独裁官とは特定の元首を設けていなかった共和政ローマにおいて、非常事態に1人だけ任命される「全権を有する政務官」、つまり事実上の国家元首である。一方、プロスクリプティオとは、共和政ローマで実施された特定の人物を国家の敵として法の保護の対象外に置く措置。その名簿は公示され、その人物の財産を没収しても罪に問われないものとされた。
このとき、カエサルも処刑の対象とされたが、紀元前81年に小アジア、アカエア(ギリシア南部)へ亡命した。
ローマへの帰還
※カエサルの胸像(ウィーン美術史美術館)
紀元前78年にスッラが死去したことでカエサルはローマへ帰還した。
当時のローマは属州総督らが現地民を相手に脅迫・搾取・収賄などを行っていたが、カエサルは彼らをことごとく批判し、次々と告発した。その後は、軍団司令官に選出され、政治の階段を登ることになる。
紀元前69年に財務官に就任するも、30歳前後のカエサルにとっては普通のキャリアであり、政治の頂点に立つにはスタートラインにも立っていないという有様だった。アレキサンダー大王の像の前では、「アレクサンドロスの年齢に達したのにも拘らず何もなしえていない」と嘆いている。
財務官の任期を終えたことで元老院の議席を得たカエサルは、ポンペイアという女性と結婚する。ポンペイアは皮肉にもカエサルがローマから亡命する原因となったスッラの孫であった。しかし、ポンペイアは裕福だったため、彼はその財産を買収や陰謀に使った。
実はカエサルは若い頃より多額の借金があった。それも個人では返済不可能な額である。しかし、彼は「借金が少額のうちは債権者優位、借金が高額になれば債務者有利」と気付き、債権者の支持を取り付けて政治の頂点を目指したという。債権者たちは、回収のためにはカエサルが出世するしかないことをわかっていたからだ。
その後も遅咲きながら出世を重ねたカエサルは、グナエウス・ポンペイウスやマルクス・リキニウス・クラッススと手を組み三頭政治体制を築く。民衆派として民衆から絶大な支持を誇るカエサル、元軍団総司令官として軍事力を背景に持つポンペイウス、経済力を有するクラッススの三者が手を組むことで、当時強大な政治力を持っていた元老院に対抗できる勢力を形成したのである。
ローマ内戦
※ガリア戦争終結後の共和政ローマ。赤い地域が元老院派・ポンペイウス勢力圏。青い地域がカエサル支配の属州。
しかし、三頭政治はその一画であるクラッススが、紀元前53年にパルティアとのカルラエの戦いで戦死したことにより崩壊する。パルティアとは、カスピ海南東部、イラン高原東北部に興った王国・遊牧国家である。
元老院はポンペウスを抱き込み、カエサルに対し、不法に軍を維持するのならば「国家の敵」と宣告するとした。
カエサルは、ガリア(現:フランス、ベルギー、スイス等)に遠征してその全域を征服し、共和政ローマの属州とした一連の戦争、ガリア戦争に出征していたが、紀元前50年、ポンペイウス及び元老院派はローマに戻り軍を解散するよう指示。しかし、これを無視したカエサルは、ガリア・キサルピナ(北イタリア地方)とイタリア本土の境界であるルビコン川を渡るという決定的な一歩を踏み出した。
このときの発せられたのが「賽は投げられた(alea iacta est)(後戻りは出来ない)」という言葉である。
ルビコン川を越えたカエサルはアドリア海沿いにイタリア半島の制圧を目指した。一方のポンペイウスと元老院議員たちは、ギリシアへ避難したことにより、カエサルはイタリア半島の実質的な支配権を手にする。さらに追撃の手を休めることなく、ポンペウスを標的にギリシア、エジプトへと転戦したが、ポンペイウスはアレクサンドリアに上陸しようとした際、プトレマイオス13世の側近の計略によって迎えの船の上で殺害された。
後を追ってきたカエサルがアレクサンドリアに着いたのは、その数日後だった。ポンペイウス殺害の理由は、ローマ軍のエジプトへの介入を防ぐためだったといわれる。
ポンペイウスの死を知ったカエサルは、軍勢を伴ってエジプトの首都・アレクサンドリアに上陸した。当時のエジプトでは、クレオパトラ7世とプトレマイオス13世の姉弟が争っており、カエサルは両者の仲介を模索したものの、プトレマイオス13世派から攻撃を受けた為、クレオパトラ7世の側に立って政争に介入し、ナイルの戦いで、カエサル麾下のローマ軍はプトレマイオス13世派を打ち破った。
政治の頂点へ
※『クレオパトラをエジプト女王へ据えるカエサル』
エジプト平定後、カエサルは親密になったクレオパトラ7世とエジプトで過ごしたが、小アジアに派遣していた軍がポントス王ファルナケス2世に敗北したという報せが届いた。ポントスはローマの属国だったが、ファルナケス2世はローマの内乱に乗じて兵を挙げたのである。
紀元前47年6月、カエサルはエジプトを発ち、8月2日にゼラの戦いでファルナケス2世を破った。
この時、ローマにいる腹心のガイウス・マティウスに送った戦勝報告に「来た、見た、勝った (Veni, vidi, vici.)」との言葉がある。これは明瞭簡潔を特徴とするカエサルらしい言葉として記録されている。
その後は、ポンペイウス・元老院派を一掃し、紀元前46年夏、ローマへ帰還したカエサルは市民の熱狂的な歓呼に迎えられ、壮麗な凱旋式を挙行した。紀元前45年3月には一連のローマ内戦を終結させたのである。
元老院派を武力で制圧し、ローマでの支配権を確固たるものとしたカエサルは、共和政の改革に着手する。元老院の権力を低下させ、自らが終身独裁官に就任(紀元前44年2月)し、権力を1点に集中することで統治能力の強化を図ったのである。この権力集中システムは、後の帝政ローマ誕生の礎ともなった。
しかし、それは一方で共和主義者らに共和政崩壊の危機感を抱かせることとなる。
暗殺
※『カエサル暗殺』
紀元前44年3月15日 (Idus Martiae)、元老院へ出席するカエサルの随行者はデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスであった。ブルトゥスは、ガリア戦争に従軍したときからカエサルの腹心として多くの戦いに貢献してきた。そのため、カエサルの信頼も厚く、ガリアの統治も任されるほどであったとされる。しかも、彼はカエサルが最も愛したと伝えられるセルウィリアの息子でもあった。
終身独裁官に就任したカエサルの身に危険が及ぶことは予測できていたが、当の本人は身の安寧に汲々としているようでは生きている甲斐がない」「私は自分が信じる道に従って行動している。だから他人がそう生きることも当然と思っている」といったことを述べている。
その結果、カエサルは襲撃されることとなる。
事件は元老院の開会前に起こったとされ、ポンペイウス劇場に隣接する列柱廊(現在のトッレ・アルジェンティーナ広場内)でマルクス・ブルトゥスらによって暗殺された。23の刺し傷の内、2つ目の刺し傷が致命傷となったという。暗殺された際、カエサルは「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」と叫んだとされ、これはシェイクスピアの戯曲『ジュリアス・シーザー』の中の台詞として有名になった。
最後に
アレキサンダー大王は主に戦場で功績を残したのに対し、カエサルは戦場と政治の場で功績を残した。そのエピソードは膨大で、今回は彼の生涯を追うだけになってしまったが、最後にローマらしい話を紹介しよう。
カエサルは彫像などでも美男子として表現されているが、実際には容姿には恵まれなかったらしい。それでも恋愛関係のエピソードは多く、それはローマ市民の知るところでもあった。
カエサルがローマに凱旋したときのこと。行進するカエサル軍団兵が市民たちに告げた。
「夫たちよ、妻を隠せ!女たらしのお通りだ」
しかし、これは意図的に言い放ったものだった。
神々が凱旋するカエサルに嫉妬しないよう、同時にカエサルが栄誉に溺れないように戒めるためだったという。
ユーモアのなかに真実を織り交ぜたローマ文化らしい話である。
(クレオパトラについては「世界と男を翻弄したクレオパトラの真の素顔について調べてみた」を参照)
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