関わった人が不幸になると言われる呪いの映画は、意外と数多い。
1982年公開の「ポルターガイスト」では、映画に関わった人が次々と不幸に見舞われてしまった。犠牲になった者の中には、12歳の少女もいる。しかし「ポルターガイスト」の例は、まだ優しい方だろう。
ハリウッドで最も呪われた映画として名を馳せているのが、「Atuk(アトゥック)」である。
呪いが強過ぎるがあまり、制作は完了せずにお蔵入りとなっている。
今回は、曰くつきの映画「Atuk」について、恐る恐る調べてみた。
目次
「Atuk」とは?原作は小説
「Atuk」の原作は、1963年に出版された小説である。
大筋はカルチャーギャップを描いたコメディであり、イヌイットのお爺ちゃんが大都会にやって来て、ハチャメチャな騒動を巻き起こすというものである。
原作者は、カナダの小説家であると同時に映画の脚本も務めるモルデカイ・リッチラーである。
映画化の話はスムーズに進み、70年代には既に固まっていた。
当初、監督はノーマン・ジュイソンが務める予定だった。彼は「夜の大走査線」で、アカデミー賞を獲得した名監督である。
脚本家のトッド・キャロルの手により脚本が完成され、あとは撮影を待つだけとなった。
ところがノーマン・ジュイソンは、他の映画作品に携わることになり降板。1982年まで、映画制作はお預けとなる。
ジョン・ベルーシとサム・キニスンの事例
映画「Atuk」の主役候補となったのは、ジョン・ベルーシだった。
彼は、映画「ブルース・ブラザーズ」の大ヒットにより、一躍時の人となったコメディアンである。ところが主役候補となった直後の1982年3月5日。薬物過剰摂取により死去、享年33であった。
ジョン・ベルーシの死去により、映画制作の話は流れてしまった。しかし1988年になると、再び「Atuk」の制作が決定した。
2人目の主役候補となったのは、人気コメディアンのサム・キニスンだった。
主役が決まると、サム・キニスンは脚本の書き換えを指示した。しかし、もし指示通りに動いてしまうと映画制作会社に大きな負担がかかってしまう。
結果、サム・キニスンは映画会社と衝突し、映画制作は再び中止となった。
なお、サム・キニスンにはこの時点では特に何も起こらなかった。
運命の1994年!ジョン・キャンディの事例
映画「Atuk」が呪われた映画だという噂が広まりだしたのは、1994年からである。
再び企画が持ち上がり、3人目の主役候補となったのは、ジョン・キャンディだった。
彼は、名脇役としてキャリアを積み重ね、ブレイクが確実視されていた俳優だった。
ところが、同年3月4日に心臓発作で死去。享年43。
そしてなんと、ジョン・キャンディの悲劇から1ヵ月後の4月10日。2人目の主役候補だったサム・キニスンが交通事故で他界してしまったのである。享年38。
さらに11月8日には、作家のマイケル・ドナヒューが脳出血で死去した。享年54。マイケル・ドナヒューはジョン・キャンディの友人で、「Atuk」の脚本を読んでいたという噂が出ている。
1994年の1年の間に「Atuk」に関係した3人が、立て続けに死去してしまったのである。
こうしてハリウッドで「呪いの映画」という噂が一気に広まっていった。
奇妙な偶然?クリス・ファーレイの事例
しかし1997年に、なぜか再度「Atuk」の制作が決定してしまった。
次の主役候補となったのは、クリス・ファーレイである。
彼は、アメリカのコメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」で不動の人気を獲得し、「コーンヘッズ」「ビバリーヒルズ・ニンジャ」といった映画にも積極的に出演していた。
さらなる飛躍を求めたクリス・ファーレイが目を付けたのが、曰くつき映画の「Atuk」だった。
しかし映画出演は叶うことなく、なんと彼も1997年12月18日、薬物過剰摂取により死去してしまったのである。享年33。
1人目の犠牲者となったジョン・ベルーシと、死因・死亡時年齢が全く同じである。
さらに、2人ともブレイクのきっかけとなったのが、同じコメディ番組「サタデー・ナイト・ライブ」だった。
これは、単なる偶然なのだろうか。
最悪の結末!フィル・ハートマンの事例
「Atuk」の呪いが最も強く出てしまったのが、最後の犠牲者となったフィル・ハートマンである。
フィル・ハートマンが「Atuk」の出演を許諾したかどうかは定かではない。ただ主役候補として、名前が挙がっていたのは事実である。
フィル・ハートマンも、ジョン・ベルーシやクリス・ファーレイと同じ「サタデー・ナイト・ライブ」出身者であった。コメディアンとしては超一流で、脚本家や声優としてもマルチに活躍していた。
しかしプライベートでは争いが耐えず、トラブルに発展することもしばしばだった。
特に3番目の妻であるブリン・オムダールとのトラブルは激しかったという。
ブリン・オムダールは気性が荒い上に嫉妬深く、夫が他の女性と会話するだけでも大激怒するほどだった。そしてフィル・ハートマンは妻の怒りを鎮めるために、部屋に籠るようになってしまった。
そして迎えた1998年5月28日。ブリン・オムダールは怒りを抑えられなくなってしまったのだろう。
彼女はなんと、部屋で休んでいる夫の元へ向かい、頭と胸部をめがけて銃を発射してしまった。
そして彼女は自責の念に駆られたのか、直後に銃で自殺してしまったのである。
「Atuk」に関わった人のその後
俳優以外の関係者は、どうなったのだろうか?
原作者のモルデカイ・リッチラーは、その後も精力的に執筆活動を続けている。特に呪いの影響を受けた様子もなく、2001年7月3日に死去。享年70であった。
当初監督を務める予定だったノーマン・ジュイソンは、2023年時点で97歳となる。「Atuk」の監督を退いた後にも次々と作品を発表し、1971年「屋根の上のバイオリン弾き」でアカデミー賞候補となっている。1987年の「月の輝く夜」では、ベルリン国際映画監督賞を受賞した。
脚本を担当したトッド・キャロルのその後の活動は不明である。1988年、「偽りのヘブン」で脚本を務め、1999年にアメリカの新聞社「ロサンゼルス・タイム誌」からインタビューを受けたことが確認されている。
呪いが本当にあるかどうかは断定できないが、偶然とは言い切れないほど亡くなった人が多いのも事実である。
映画「Atuk」が上映される日は来るのだろうか。
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