ここでは、1605年から江戸幕府2代目将軍になった徳川秀忠について取り上げる。
まず、徳川秀忠の生い立ちから取り上げる。次に、徳川家康の陰に隠れていたため、徳川秀忠は印象が薄いと言われているが、ここでは秀忠の実績として大名の取り潰しと法度の制定について取り上げる。
最後に、3代目将軍を徳川家光に継がせるために行ったことについて取り上げる。
徳川秀忠 の生い立ち
徳川秀忠は1579年に徳川家康の3男として生まれた。江戸幕府の将軍の中で、豊臣秀吉に名付けられたのは2代目の秀忠だけである。
徳川家康の長男は徳川信康で、武に優れた非常に優秀な武将だったが、信長に武田勝頼と内通しているという疑いをかけられ自害した。信長は優秀な信康を恐れていたという説がある。
次男は秀康で、長男同様に武勇抜群。豊臣秀吉の人質になった後、下総国(現在の千葉県北部)の戦国大名だった結城政勝の養子になり、結城秀康と名乗っている。
秀忠は3男で武勇型の武将ではなかったが、幼いころから家督を継ぐという前提で教育を受けていたと言われている。
徳川秀忠 2代目将軍として実力発揮
徳川秀忠が父 家康と比べて劣っているという印象を受ける人が多いと思われる。その要因として、関ケ原の戦いの遅参であると考えられる。
※関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)関ケ原町歴史民族資料館
徳川家康の部隊は東海道を通って関ヶ原に陣をとった。家康の部隊には井伊直政や本多正純など古くからの家臣はいるものの、ほとんどが豊臣方で、反石田三成で構成されていた。代表的な人物として福島正則・黒田長政・山内一豊らである。
徳川秀忠の部隊が本隊で、信濃国の上田城に籠城する真田昌幸・幸村親子を倒してから、関ヶ原で家康の部隊と合流する計画だったが、秀忠の部隊は真田親子の籠城戦に苦戦し、関ヶ原に遅れて到着し既に戦いが終わっていた。
戦いの結果については徳川家康の勝利に終わったが、豊臣方の家臣で東軍についた武将には配慮せざる得ず、いつまた状況がひっくり返るか分からない不安定な状況であった。
そんな状況下の中、1605年に徳川秀忠は2代目江戸幕府の将軍になる。
2代目将軍になると、秀忠は大名の取り潰しを始めた。その代表的な例として豊臣氏を滅ぼした大坂の陣が挙げられる。関ケ原の戦い以降、豊臣秀頼は大坂の大名として存在していた。方広寺の鐘の文字に国家安康と君臣豊楽があったことから謀反の疑いがあるとみなされ、これが大坂の陣のきっかけになり、豊臣氏は滅ぼされた。
1615年に武家諸法度元和令を制定し、無断で城を改修した場合、改易処分にするという決まりを作った。武家諸法度に違反して取り潰された大名では、広島城城主福島正則が有名である。1615年の武家諸法度以降、法度を理由に多くの大名の取り潰しを行う。武家諸法度については将軍の代替わりごとに制定されていくのが慣習となる。
武家諸法度以外では、謀反の疑いがあるとして本多正純を改易にしている。本多正純は父家康の側近として知られていた人物である。この改易については、宇都宮城にある釣り天井を崩落させて秀忠の暗殺を狙っていたと言われ、宇都宮釣天井事件と言われている。なお、この事件については未遂に終わっている。
武家諸法度以外では、公家や天皇の住まいの禁裏御料を対象にした決まり、禁中並公家諸法度も発布し、江戸幕府の政治体制の確立に努めた。
おわりに、3代将軍家光擁立に向けて
徳川秀忠と妻のお江(浅井長政の娘)の間には9人の子供がいた。その子どもの中には徳川家光・松平忠長・保科正之がいた。
※保科正之像(狩野探幽筆 土津神社蔵 福島県立博物館寄託)
まず、保科正之については会津藩の養子となり、4代将軍徳川家綱の優秀な補佐役となっている。陸奥会津藩初代藩主であり日本屈指の名君と呼び声も高い。
家光の弟、松平忠長については、父秀忠と母お江が溺愛していたと言われている。将軍になってもおかしくないと思われていたが、乱暴な振る舞いが目立つようになり、蟄居の後に切腹するように命じられた。このようにして徳川家光は秀忠の家臣団の引き締めの中で3代目の将軍となったのである。
徳川15将軍シリーズ:
徳川家康【江戸幕府初代将軍】の生涯
徳川秀忠【徳川2代目将軍】―意外に実力者だった
徳川家光【徳川3代目将軍】―幕藩体制確立を目指して
徳川家綱【徳川4代目将軍】―武断政治から文治政治への転換
徳川綱吉【徳川5代目将軍】ー学問を奨励と生類憐みの令
徳川家宣・徳川家継【徳川6、7代目将軍】ー新井白石による政治改革
徳川吉宗【徳川8代目将軍】ー享保の改革
徳川家重〜家治【德川9〜10代目将軍】と田沼意次の政治
徳川家斉【徳川11代目将軍】松平忠信による寛政の改革
寛政の改革後の徳川家斉【化政文化】
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