「2018年の顔」のひとりである西郷隆盛。
NHKの大河ドラマ『西郷どん』は彼を主人公にしたものである。
維新三傑のひとりであり、薩摩藩士として活躍した彼の銅像は鹿児島の他にもある。そのなかで一番有名なのは、東京・上野公園に建つものだ。
しかし、なぜ彼の銅像が上野公園に作られることになったのだろうか?しかも、勇ましい軍服姿ではなく、浴衣姿で犬を連れ歩くというラフなスタイルである。
謎は深まるばかりだ。
西郷像除幕式
※西郷隆盛像
1898年(明治31年)12月18日、上野公園で西郷隆盛像の除幕式が行われた。江戸の仏師であり、維新後の廃仏毀釈により彫刻家に転身した高村光雲(たかむらこううん)の作品である。愛犬の「ツン」は、皇居前広場にある楠木正成像で有名な彫刻家・後藤貞行(ごとうさだゆき)が担当した。
当初は、陸軍大将服姿の立像として計画されていたが、最終的には現在の姿で完成する。その背景には、西南戦争で政府の逆賊となった西郷の人気が、反政府運動を生む土壌になりかねないという政治的判断があったとされる。
しかし、生前の西郷を写した信頼性のある写真が残っておらず、除幕式に招かれた夫人の糸子は像を見るなり「主人はこのような人ではないですよ」と驚きを隠さなかったという。
上野戦争
※上野戦争の図
上野公園の正式名は「上野恩賜公園」である。
恩賜(おんし)とは、第二次世界大戦前は宮内省が管理する御料地だった土地を公に下賜されて、整備された公園のことだ。つまりは、皇室ゆかりの公園である。
公園として整備されたのは1876年(明治9年)のことだが、戊辰戦争においては戦場となった。新政府軍の西郷と、旧幕府の勝海舟による江戸での会談で江戸城は無血開城が決まり、江戸総攻撃は回避される。しかし、一部の旧幕府軍は徹底抗戦を主張して上野に陣を構えた。
新政府軍による宣戦布告の後、薩摩藩の大村益次郎指揮の下、総攻撃が行われる。当初の予定では、一方向に敵の退路を確保し、そこで降伏させる手筈となっていたが、大村は殲滅戦を狙っていた。西郷は殲滅という強硬手段は不本意としつつも、自らの部隊を率いて戦闘を開始する。結局は、西郷の部隊が旧幕府軍の防衛線を突破したことで、一気に戦闘終結まで至ったのだった。
つまり、西郷が江戸の戦闘において活躍した場所こそ、上野であった。
『逆徒』の汚名
※西南戦争における田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍。
しかしながら、西郷は新政府の要職にありながらも、岩倉具視らと反りが合わずにこれを辞任。後に西南戦争における薩摩軍の指揮官となり、反逆者としてその生涯を閉じた。
当時は、明治という新時代を迎えたばかり。政治的にも安定してないこの時に、維新三傑だった男が新政府に弓を引くということは、政府からすれば顔に泥を塗られたようなものである。日本政府は一枚岩でないということが、国民のみならず、世界に露呈してしまったのだ。
当然『逆徒』の汚名を着せられ、政府は西郷の記憶を消したがっていた。
だが、明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、その恩赦により汚名をそそぐことになったばかりか、正三位の官位を賜っている。これは西南戦争があってなお、明治天皇が西郷を高く評価していたということだ。
西郷隆盛銅像 建立
※エドアルド・キヨッソーネ作の西郷
そのようなことで、西郷は再び英雄として認められた。
これを切っ掛けに元薩摩藩士らが中心となり、銅像の建設計画が立ち上がる。宮内省からも500円が下賜され、さらに全国の有志による寄付金により、西郷の死から21年後に銅像は完成した。このことからも、いかに西郷が人々に親しまれていたかがわかる。
製作にあたり、一番の苦労はいかに本人に似せるかということであった。前述のように写真は残っておらず、参考になるのはエドアルド・キヨッソーネが西郷の親戚をもとに描写したという版画のみ。しかも、往年の西郷を知る人々も少なからず生きていた時代である。
生前の西郷を知る東郷平八郎も、上野の像を見て彫刻では西郷の柔らかさ、温和な感じが表現できていないとの旨を述べていた。
西郷さん
※西郷隆盛像
軍を辞め、野に下った西郷はしばしば愛犬を連れては野山を散歩していたという。
しかし、それはプライベートな限られたときであり、人前に出るときには必ず正装していたと糸子夫人も証言しており、当時としては偉人の浴衣姿を銅像にするというのはかなり異質だったようだ。
しかし、そのおかげで現代まで「上野の西郷さん」として親しまれている。
正面から見ると同と比較して大きめな頭部は、像の下から見たときに適正な大きさに見えるようにとの配慮であったが、少し大きい顔も愛嬌を感じてしまう。結果として、浴衣姿だったために飾らない西郷隆盛という男の印象が、人々に好感を与えるわけだ。
最後に
上野の銅像はラフなスタイルで親しみやすいが、鹿児島には軍服姿で直立した銅像や、羽織袴姿の銅像など、偉人らしい銅像が建っている。いずれも昭和の作品だが、郷土では親しみよりも尊敬されいるのが西郷隆盛という男であった。
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