槍の遣い手の二代目半蔵
服部正成(はっとりまさなり)は江戸城の半蔵門にその名を遺した徳川家康の家臣ですが、後年の創作とは異なり自身は忍者ではなく、忍者らを支配下に置いた人物で槍の遣い手としてその名を知られた武士でした。
半蔵という通称も正成の父であり、こちらは実際に忍者であったと言われている服部保長(初代服部半蔵)以後、服部家の当主が継承していたものであり、その中でも最も有名なのがこの二代目半蔵であった正成です。
「鬼半蔵」との別名をとった正成は大名にこそなっていませんが、最終的には8,000石を領する大身の旗本でした。
三方ヶ原の合戦でも活躍
正成は、天文11年(1542年)に父・保長の四男として三河に生を受けました。家康がその1年後の生年のためほぼ同年代と言えます。
父・保長は家康の祖父にあたる松平清康の代から松平氏に仕え、正成もその流れで家康に仕えるようになったと伝えられています。
正成は16歳の時の弘治3年(1557年)の初陣において早くも武功を挙げ、家康から直接褒美を賜ったとされています。
また正成は元亀6年(1572年)の武田信玄との三方ヶ原の合戦にも従軍し、この合戦で徳川勢は敗北を喫したものの、正成自身は武功を挙げ、その功で家康から槍を授けられると同時に伊賀衆150人を束ねることになったと伝えられています。
介錯役を果たせず逆に評価
正成の巷説としてよく知られている逸話のひとつに、家康の嫡男・信康の介錯を全うできなかったというものがあります。
これは天正7年(1579年)に起きた事件で、家康の同盟者であった織田信長に、信康とその母・築山殿の武田家への内通を疑われて自決く余儀なくされたとうものでした。
この際、家臣の中でも武勇の誉れの高い正成が信康の介錯役を家康から任されたものの、主君に刃は向けられぬとして、その任を果たすことが出来なかったと伝えられているものです。
この正成の態度を家康は改めて評価したとされ「三河物語」に記されている逸話ですが、真偽のほどは定かではありません。
伊賀越えでの正成
正成が家康の生涯最大の窮地を救った働きとして語り継がれている出来事が「伊賀越え」です。
これは天正10年(1582年)の6月に織田信長が明智光秀に討たれて横死した「本能寺の変」の際の逸話です。
このとき家康一行は安土の信長を訪れた後、大坂の堺に滞在していました。随行していた家康の家臣は正成を始め本多忠勝、穴山梅雪らのほんの僅かな供廻り30名という少数でした。ここで家康一行は光秀勢の追っ手を逃れて領国の三河を目指しました。その中で堺から伊賀を通って伊勢へ抜け、そこから海路で三河に逃れるという道を選びました。
この時、正成は、家康の御用商人であった茶屋四郎次郎と共同して伊賀・甲賀の国人らを味方につけ、無事この逃避行を成功させる役割を担いました。
これには正成が伊賀の出であったことと、茶屋四郎次郎が提供した黄金の力の賜物であったとも伝えられています。
因みにこの時から伊賀衆のみならず甲賀衆も徳川に仕える勢力となったとされています。
半蔵門の由来
正成は天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原・北条攻めにも従軍し、戦後にこの関東に家康が封じられると8,000石を拝領し、同時にすべての伊賀衆・甲賀衆を束ねる立場となりました。
しかし正成は、慶長元年(1597年)に死去し、自身は徳川幕府の成立を目にすることなく世を去りました。
服部家の家督は子の正就が半蔵の通称と共に受け継ぎ、正成が警護を担ったとされる江戸城の西端の門は「半蔵門」と称され、今でも地名として遺されています。
後年の創作から忍者として描かれることが多い正成ですが、れっきとした武士として家康に仕えた生涯でした。
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