我思う故に我あり
この言葉は聞いたことがあるという人も多いと思う。近代哲学の父ルネ・デカルトはこの言葉に「自分という存在は、自分が認識することで、存在する」という意味をここで発言している。
デカルトがこの言葉を発した理由を、背景と共に語る。
ルネ・デカルトとは
ルネ・デカルトは1596年3月31日生まれ、フランスの哲学者として知られる。彼は数学にも精通し、非常に合理主義であった。
彼は中部フランスの西側にある、ラ・エーに生まれた。母は病弱でデカルトを産んで1年程で亡くなっている。デカルトは10歳でイエズス会のラ・フレーシュ学院に入学し、そこでは反宗教革命や反ヒューマニズムの気風からカトリック信仰を生徒に推し進めていた。デカルトは学院において従順で、論理学・自然学・形而上学だけでなく占星術や魔術に関する本も読み漁った。
学問の中では数学を好み、哲学的討論において数学的な手法を用いて相手を困らせることも多々あった。18歳で学院を卒業した後、ポワティエ大学にて法学と医学をおさめ、数学者との交友も広げていった。
その後、22歳で軍隊に加わり、イザーク・ベークマンという人物と出会う。このとき、デカルトは彼の幅広い知識や思慮深さにかなり刺激をうけた。さらに27歳の頃にはパリにてホッブズやガッサンディなどの哲学者と交流。1428年にはオランダに移住し、本格的に哲学にとりかかった。
デカルトは最期、肺炎によって死去しスウェーデンに埋葬された。その後、フランスの修道院に移され、1972年サン・ジェルマン・デ・プレ協会に移された。
古代ギリシア哲学からの流れ
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは「何も知らない、ということを知った」と考えた。
ソクラテスは当時、一部の有識者に先導されるままについていく自分たちはそれでいいのか?と考えた。
彼は「ある知識に対して詳しい人でも、その専門分野の人からみれば無知に見える」と考えた。そして、「自分が知らないと自覚していれば、自分のほうが知っていると思い込んでいる人よりも賢く優れている」と結論付けた。これこそがソクラテスの無知の知である。
そしてソクラテスの思想を受け継いだ弟子のプラトン。
彼は「イデア」という思想のもとに、我々が認識するあらゆる物事は影であり、本質であるイデアのコピーであると考えた。
イデアは古代ギリシア語の同士ideinが由来で、「見られるもの」つまり「姿・形」を意味している。プラトンはもともと自分たちにはイデアのことを知っていて忘れているだけであり、現実の世界で生活し学習を重ねることで思い出していると考えた。
例えば「黄色で細長くて甘いものはバナナ」というのは、見て食べて知って覚えたのではなく、もともとイデアとして自分の中に記憶してあり、「あぁそういえば、黄色で細くて甘くて皮をむくこれはバナナだったな」と思い出しているに過ぎないと考えた。
ソクラテスが「無知であることを認識すべし」と説いたことに対して、プラトンはその思想を受け入れながら「覚えてないだけだ」と考えた。
プラトンの弟子の アリストテレスは、イデア論を批判的であった。
もともと記憶にあるのではなく、知識として学習することで認識するという考えである。「記憶にないのだから何度見てもバナナなんて思いださないし、見て触って食べて覚えるよ、それがみかんといわれたらみかんと学習するさ」と唱えた。その考えから、彼は現実に存在するあらゆる物事が形相と資料(設計図と材料)で形成されると考えた。つまり「バナナは土と種と水と日光があってはじめてできあがる。」という考え。現代科学的な思考である。
そしてデカルトの哲学
ソクラテスは無知を知れと説き、プラトンは忘れているだけと説いた。そしてアリストテレスは、物事は全て現実世界に存在して、存在する物から形作られると考えた。
このように哲学はそれぞれ思想を持っているが、デカルトは「そもそも全てを疑ってかかってみよう」と考えた。
「これはバナナ?いや本当にバナナか?」という考え。方法的懐疑は、万人が共通に理解できる範囲はどこまでなのか、を考えようとしたものなのだ。
彼はあらゆる物事を疑ってかかった。究極的には自分が見ているこの世界もマトリックス的な夢かもしれない。
9年という長い月日をかけて、疑い続けたその結果、「あらゆる物事は疑えるが、こうして物事を考えているその自分の存在だけは疑えない」という結論に達した。
それが、「我思う故に我あり」である。
我思うは、私が思わなければ私は存在しないとも同じという意味ではなく、様々なことを疑って考えている自分の主観だけは疑えないという意味だ。この世界が夢だったとしてもそれを感じている主観だけは確かに存在する。
そうしたデカルトの考えは、万人が共通で理解できる始点からはじめることの大切さを説いたのである。
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