奈良の大仏さまで有名な東大寺では、毎年3月になると二月堂でお水取り(修二会)が行なわれる。
お水取りは大きな松明を持った童子が、火の粉をまき散らしながら走る「おたいまつ」が有名だ。
なぜ3月の行事なのに二月堂なのだろうか?
東大寺の草創
東大寺は、聖武天皇が天平勝宝4年(752)に大仏さまこと盧舎那仏(るしゃなぶつ)を建立、開眼したのが始まりと思われがちである。
じつは歴史はもっと古く、わずか1歳で早世した皇太子の基親王の冥福を祈るために、聖武天皇が神亀5年(728)に造営した「金鐘寺(こんしょうじ)」が東大寺の前身であった。
政情不安と天変地異で荒廃した人心を、盧舎那仏の教えで一新して国を救おうと考えた聖武天皇は、紫香楽宮に遷都して天平15年(743)に盧舎那大仏造立の詔を発し、甲賀寺で大仏造立を始めた。しかし大地震で崩壊してしまう。結局、天平17年(745)に平城京に遷都し、金鐘寺で再度大仏造立を始めた。
金鐘寺は「金光明寺」と名前を変え、大仏造立時には「東之大寺」と呼ばれるようになった。いつ「東大寺」となったかはわかっていないらしい。
飛鳥にある岡寺を建立した義淵(ぎえん)の弟子の良弁(ろうべん)は、金鐘寺に住み念持仏の執金剛神を安置して修行をしていた。『東大寺縁起』によると、ある日執金剛神が光を放ち、その光を見た聖武天皇が人を使って調べさせ、良弁を知ったという。
良弁は聖武天皇から厚く信任され、華厳宗を成立させ、大仏建立と東大寺の造営にかかわり、天平勝宝4年(752)に東大寺の初代別当(住職)となった。
東大寺で最初に建てられたのは三月堂
平安時代後期に編纂された『東大寺要録』に、聖武天皇が良弁のために天平5年(733)に金鐘寺を改めて羂索院を創立した、と記されている。
それによると、羂索院(羂索堂)とは不空羂索観音を安置する本堂のことで、加えて上院観音堂(二月堂)・僧坊など複数の堂舎から構成されていたようだ。当初は、羂索堂と上院観音堂は一体になっていたともいわれる。
羂索堂では旧暦3月16日に法華会が行なわれていたので、法華堂(三月堂)と呼ばれるようになった。
法華会は別名を「桜会」といって、天平18年(746)に始まり、紙で作った造花で仏前を飾って法華経の講讃が行なわれたそうだ。のち学問研鑽のために、竪義問答が加えられるようになった。現在は行なわれていない。
法華堂は一度も兵火にかかったことがなく、本堂の部分は東大寺の創建よりも古い建物といわれる。
現在見られる、合の間をはさんで本堂と一体となっている礼堂は、正治2年(1200)に俊乗房重源が東大寺復興造営の一環で付け加えたものだ。
お水取りは2月の行事なので二月堂
一般に「お水取り」とは二月堂で行なわれる修二会(しゅにえ)のことをさす。
修二会は修二月に行なわれるからその名が付いた。修二月とは「正月に準じる月」の意味で、天竺(インド)では修二月が正月にあたるため、仏への供養を行なうそうだ。
3月にお水取りをするのに、なぜ二月堂と呼ばれるのか?
それは毎年旧暦2月に修二会を行なうから上院観音堂のことを二月堂と呼んでいたのに、明治6年(1863)に日本が新暦を採用したさいに、月遅れにして3月に変更されてしまったからだ。
十一面悔過とは十一面観音に懺悔する行事
修二会は正しくは「十一面悔過」(じゅういちめんけか)といい、天平勝宝4年(752)から現在まで、一度も途切れることなく行なわれている。
十一面悔過とは、国家・社会・すべての人間が犯したありとあらゆる罪や過ちを、僧侶が代わって二月堂の本尊の十一面観音に懺悔し、国家安泰と人々の幸福を祈願する法要である。
十一面悔過を始めたのは、良弁の弟子の実忠(じっちゅう)である。実忠は良弁の継承者として、東大寺の経済的基盤を固め、伽藍の修理や造営にかかわった。
『二月堂縁起』に十一面悔過を始めたいきさつが記されている。
実忠が笠置山の龍穴の奥でに入っていくと都率天(天界の一つ)に通じており、そこにあった常念観音院の中で、天人達が生身の十一面観音を中心に懺悔を行なっている光景を見た。そしてその儀式を真似たのが始まり。ということである。
笠置山は京都府の南にあり、奈良と隣接している。古くから山岳信仰の修行の地で、平安から鎌倉時代には弥勒信仰の霊場として栄えた。
四月堂もある
さて、2月は二月堂、3月は法華堂ときて、4月はどこか。
4月は二月堂と法華堂の西側にある、三昧堂(普賢三昧堂)である。成立年代はわかっておらず、治安元年(1021)に法華三昧が行なわれた記録が残っている。この法華三昧が4月に行なわれたので四月堂と呼ばれるようになったのは、近世になってからだそうだ。
残念ながら、5月以降の名が付く建物はない。
正月堂も東大寺の外にある
では1月はあるのか。
三重県伊賀市にある観菩提寺が正月堂である。
東大寺の上院観音堂は2月に修二会を行なうから二月堂、観菩提寺で正月に修正会を行なうから正月堂、と呼ばれるのだそうだ。
観菩提寺は天平勝宝3年(751)に、実忠によって建立された。中世には東大寺の別院として栄えたが、天正伊賀の乱で多くの伽藍が焼失してしまった。
現在は2月に行なわれる修正会の行事には、東大寺の修二会と類似している行事が多いという。
もう一つ、京都府相楽郡笠置町の笠置寺にも正月堂がある。
笠置寺の創建は定かではなく、天平勝宝4年(752)頃に実忠が本堂(正月堂)を建立した。「実忠が最初の十一面悔過をこの正月堂で行なったので、お水取り発祥の地」であるという。
どちらなのかは調べてみたがわからなかった。『東大寺辞典』には、観菩提寺が正月堂と記されているのみである。
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