マリー・アントワネットがフランス王妃として君臨していた時代は、ファッションの全盛期といっても過言ではないだろう。
ヴェルサイユ宮殿を舞台に、華やかに繰り広げたフランス宮廷の中で、マリー・アントワネットはモードの最先端として、そのヘアスタイルやファッションで多くの人々を虜にしていた。
そんなマリー・アントワネットのドレスや髪型をほぼ一手に引き受けていたのが、マリー・ジャンヌ・ローズ・ベルタン(Marie-Jeanne Rose Bertin 1747~1813)である。
彼女は宮廷のファッションの最先端を担い、なんと40年間にも渡って宮廷のファッション業界を牽引し続けたのである。
今回は、第三身分という低い立場にありながらも、王妃のドレスやヘアスタイルを担当し、王国随一のモード商として活躍した女性、ローズ・ベルタンについて調べてみた。
ローズ・ベルタンの経歴
1747年、ローズ・ベルタンはフランス北部ピカーにて、下級軍人の娘として生まれた。
彼女は小さな頃から手先が器用で、12歳の頃から髪結いとして評判を呼んでいたが、やがて16歳でパリに進出し、パリの仕立て屋「トレ・ガラン」で働き始める。
そこでお針子としての修行を始めたベルタンだったが、その当時からかなりの才能を持ち、注目されていたようである。
そして1977年、太陽王ルイ15世が死去し、マリー・アントワネットが王妃として即位した頃、ベルタンは自分の経営する店「オ・グラン・モゴル」をパリに開店したのである。
店のウィンドウには華々しいドレスを飾り、道行く人の購買意欲を駆り立て、店の玄関には金の紋章をつけた制服を着たドアボーイを配置した。
まさに、現在のハイブランドの店舗と同じような構造である。
モードファッションショップの礎を築いたといえよう。
「オ・グラン・モゴル」の近くにはシャルトル公爵夫人という貴族が住んでいた。
ベルタンの確かなセンスと、巧みな話術が気に入ったシャルトル夫人は、彼女を王妃マリー・アントワネットに紹介する。
ここからベルタンの快進撃が始まるのである。
マリー・アントワネットとの出会い
映画『マリー・アントワネット』のドレスは扇や帽子、靴に至るまで本当にかわいくて。 pic.twitter.com/ETLbuSAxVv
— Sandra Bisenco (@bisenco) July 15, 2016
当時の政治では、王妃に任されていた役割はもっぱら「文化づくり」であった。
美しいドレスに身を包み、豪華で最先端な流行を発信することで、フランスの周辺諸国に自国の文化や威信を伝えるのが役目だったのである。
現在でいえば、イギリスのキャサリン妃など、皇室女性のファッションが海外メディアに取り沙汰されるようなイメージであろうか。
オーストリアのハプスブルク家から輿入れしたマリー・アントワネットは、嫁いできた当初はファッションセンスがあまり良くなかったという。
そこで彼女は、自身の魅力を活かし、フランスの文化を発信するスタイリストを重宝することになる。
そこで選ばれたのが、当時帽子デザイナーとして活躍していたローズ・ベルタンと、髪結い師のジャン・レオナールだった。
ローズ・ベルタン、そしてジャン・レオナールとともに、第三身分出身の平民である。
本来ならば宮廷で行われる晩餐会にも顔を出せない身分であるが、この2人は特別に宮廷での催し物に参加を許されていた。
実はフランス革命以前のフランス王朝では、意外と多くの平民が才能を発揮している。
ローズ・ベルタンのようにファッションの流行を担った存在はもちろんのこと、マリー・アントワネットの夫の祖父であるルイ15世は、平民出身の公妾、ポンパドゥール夫人を重宝していた。
ルイ15世の治世時代には、王に代わってポンパドゥール夫人が政治的権力を握っていたし、王の晩年の最愛の愛人であったデュ・バリー夫人も、平民出身の女性である。
ローズ・ベルタンも平民の身分でありながら、王妃マリー・アントワネットに数々のモードファッションを授けていったのである。
また、マリー・アントワネットとローズ・ベルタンは非常に仲が良く、実に15年間もの間、毎日2人きりで顔を合わせ、ファッション談義に花を咲かせていたという。
フランス革命が起こった際にも、ローズ・ベルタンは革命政府に参加せず、マリー・アントワネットのドレスのデザインを続けたといわれている。
邁進を続けたビジネス・ウーマン
ローズ・ベルタンは、ロココ時代の華やかなモード界を牽引し続けていたが、実は生涯を通して独身を貫いていた。
彼女の器量は決して良い方ではなく、ごく平凡な顔立ちをしていて、どちらかというと冴えない娘であったという。
当時、女性が職を持つケースは限られており、ほとんどの娘が適齢期になれば結婚し、家を守っていた。
だが、ローズ・ベルタンは自ら経営する「オ・グラン・モゴル」を大繁盛へと導き、その人生を成功に導いたのである。
この店の経営を続けながらも、マリー・アントワネットを筆頭にフランスの貴族婦人たちの衣装を担当した他、演劇や舞踊のスターたちを顧客につけた。
さらには外国の貴族たちも、ローズ・ベルタンのファッションに夢中になり、訪仏の際にはベルタンの店で大量に買い物をして帰ったという。
だが、ローズ・ベルタンの栄光は、フランス革命によって奪われることになった。
革命によって、マリー・アントワネットたちがタンプル塔に幽閉されることになっても、ベルタンは王妃に帽子やスカーフを自ら届けたという。
この行動は当時の時世としては、かなり危険な行動であった。
だがベルタンは危険を承知で、マリー・アントワネットが処刑されるギリギリまで、彼女に衣類を届け続けたのだという。
このエピソードから、マリー・アントワネットとベルタンの絆が、たんなる主従関係を超えたものであるということがわかる。
革命後、ベルタンはロンドンへと亡命し、そこでモード商として細々と生活をしていたが、66歳の時に心臓発作でこの世を去った。
ファッションに身を捧げ、人生のほぼすべての時間を仕事に捧げたローズ・ベルタン。
彼女は歴史上の中でも有数のキャリア・ウーマンであったといえるだろう。
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