呉の重臣にして孔明の兄
三国志には何組もの兄弟が登場する。
兄弟で同じ勢力に仕えて日常的に顔を合わせる例もあれば、別の勢力に仕えて手紙によるやり取りがメインだった例もあるなど関係は様々だが、三国志の兄弟を語る上で外せないのは諸葛瑾(しょかつきん)と諸葛亮の諸葛兄弟である。
それぞれ呉と蜀に仕えたため成人してからの接点は少なく、また、弟の孔明が有名すぎるためどうしても兄である諸葛瑾の影が薄くなりがちだが、諸葛瑾も孫権に重用された呉の重臣である。
今回は名前は有名だが、実績に関して意外と知られていない諸葛瑾の生涯に迫る。
若き日の諸葛瑾
諸葛瑾の若い頃の記述は非常にシンプルである。
徐州に生まれた諸葛瑾は洛陽で勉学に励んでいた。
父の諸葛珪を亡くしてから叔父の諸葛玄に引き取られると、董卓の暴走から始まった戦乱を避けるため、一家は呉へと移住する。
父親代わりとして家族を養っていた諸葛玄も197年に亡くなり、諸葛家の大黒柱として家を支えるため仕事を探していた諸葛瑾は、早くから彼の才能を見抜き高く評価していた弘咨(孫権の姉婿)の推挙で孫権と面会する。
その頃の呉は孫策の暗殺によって孫権が政権を受け継いだばかりの不安定な時期であり、孫権も、自分と呉を支えてくれる優秀な人材を探していたため喜んで諸葛瑾を迎え入れる。
諸葛瑾は孫権から厚遇されると順調に出世を重ね、荊州の劉備の元でいつ滅ぼされてもおかしくない、明日をも知れぬ日々を送る弟の諸葛亮とは対照的な人生を送っていた。
孔明との関係
孫権に劉備とお互いに違う勢力に属する事になった諸葛兄弟(三男の諸葛均も劉備に仕えている)だが、普段はどのような関係だったのだろうか。
正史で諸葛兄弟が対面するのは意外と遅く、劉備が益州を手に入れてからになる。
215年、かねてから蜀を手に入れたら荊州を呉に返すという約束だった事もあり、交渉役として蜀に向かった諸葛瑾は、劉備と面会する際に孔明とも顔を合わせているが、両者とも顔を合わせるのは公式の場だけであり、プライベートで会う事はなかったという。
話を諸葛瑾と劉備の交渉に戻すと、劉備は「涼州を手に入れたら荊州を返すのでそれまで待って欲しい」という実現不可能な条件を出したため、劉備と孫権の関係は悪化してしまう。
結局、関羽と魯粛の会見(単刀赴会)によって荊州の分割が決まるが、一時交戦状態となった劉備と孫権の関係が再び悪化するのは時間の問題だった。
なお、演義の諸葛瑾は劉備より先に孔明に面会すると、荊州の返還を求めるための脅しとして「交渉に失敗したら家族が殺される」と孔明に泣き付き、弟としてそれを無視出来なくなった孔明も(全ては呉の策略と見抜いた上で)涙ながらに荊州の返還をお願いする。
最初は断る姿勢を譲らなかった劉備も孔明にまでお願いされたら断りきれなくなり、荊州の割譲に合意する。
天下統一のためにも荊州は必要な土地であり、劉備としては譲りたくないのが本音だったが、関羽なら断ってくれると読んだ孔明の期待通り、諸葛瑾は関羽によって追い返されてしまい、これが演義の単刀赴会へと繋がる事になる。
両者とも完全に公人という立場を貫いた正史と、兄弟という関係を孔明が利用して劉備と関羽を狙い通りに動かした演義のどちらが好みかは読者によって分かれるが、演義を読むか、正史を読むかで諸葛兄弟のイメージが大きく変わるのは興味深い。
夷陵の戦いと兄弟の関係復活
呉と蜀を繋いでいた魯粛の死後は、両国の関係が急速に悪化し、関羽が呉に討たれると、劉備は呉に復讐するため軍を出して夷陵の戦い(いりょうのたたかい)へと発展する。
関羽を失った劉備の怒りと悲しみは部外者には想像出来ないレベルだったが、呉と蜀が争ってもお互い無駄に疲弊して魏が得するだけで、両国にメリットはない。
停戦の使者として劉備と面会した諸葛瑾は益のない戦をやめるよう説得する。
リアリストらしい冷静な判断で、自分に最もメリットの大きい選択肢を選んで来たこれまでの劉備なら諸葛瑾の話に耳を傾けただろうが、復讐心によって冷静さを失った今の劉備を説得するのは不可能だった。(この時、諸葛瑾の申し出を受けて少しでも荊州を取り返していれば劉備は更に長生きしていた可能性が高いが、これは神のみぞ知るifルートである)
当初は呉が苦戦していた夷陵の戦いだが、最終的には呉が勝利して荊州を守り抜くとともに、直後に劉備が病死した事がきっかけとなって両国の国交が回復する。
これまでは兄弟であってもパブリック(公的)な関係を貫いていた諸葛兄弟だが、呉と蜀の関係を悪化させた張本人であり、ある意味兄弟にとって最大の「壁」だった劉備がいなくなって動きやすくなった事もあり、長い間子供がいなかった孔明のために諸葛瑾が息子の諸葛喬を叔父の養子として蜀に送るなど、劉備の死後はプライベートな付き合いを行うようになる。(残念ながら、諸葛喬は25歳の若さでこの世を去っており、蜀に貢献する事はなかった)
また、孔明にとって初めての子供である諸葛瞻が生まれた時は、息子の成長を楽しみにする手紙を諸葛瑾に送るなど、兄弟の手紙のやり取りは234年に孔明が亡くなるまで続いた。
呉一筋の人生が死後に与えた影響
他の主君に仕える事のなく呉一筋の人生を貫いた諸葛瑾だが、蜀の重臣の兄である事と、使者として何度も蜀に向かっている事もあって、呉の内部では「諸葛瑾は蜀と内通している」と疑う者がいた。
呉の重臣であり、孫権からの信頼も厚い諸葛瑾に対して失礼極まりない話だが、孫権は「私が諸葛瑾を裏切らないように、諸葛瑾が私を裏切る事はない」と相手にせず、諸葛瑾への信頼の強さをアピールした。
諸葛瑾も241年に亡くなるまで、孫権の言葉の通り68年の人生を呉と孫権に捧げた。
お互いに尊敬し合う理想の君臣関係だった孫権と諸葛瑾だが、諸葛瑾は孫権の性格を理解した上で発言と行動をしており、孫権は何かある度に諸葛瑾に相談していた。
呉の家臣から疑われた時期もあったが、孫権からの揺るぎない信頼と、誰からも愛される諸葛瑾の人柄を誰もが尊敬していた。
それだけに諸葛瑾の死を誰もが悲しんだが、更にタイミングが悪い事に、諸葛瑾の死の直前に孫権の後継者だった孫登がこの世を去っており、後継者が白紙になっていた。
翌年から呉の後継者争い(二宮事件)が激化するとともに、家臣同士が争う内乱状態となってしまうが、孫権の相談役だった諸葛瑾がいれば孫権に的確なアドバイスを送って問題が深刻化しなかった可能性が高い。
それを考えると、二宮事件の前に諸葛瑾を失ったのは、孫権にとって若い頃に父と兄を相次いで亡くした以上に大きな出来事だった。
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