千利休とは
千利休(せんのりきゅう)は戦国時代に「侘び茶(わびちゃ)」を大成し「天下一の茶人」茶聖と称された人物である。
時の権力者である織田信長と豊臣秀吉に仕え、数多くの武将や大名から慕われ、秀吉の厚い信任を得て絶大な権力を持った。
しかし、やがて二人の間には亀裂が生じ、千利休は非業の死を遂げてしまう。
禅と茶を融合した「侘び茶」を大成し、茶人でありながら豊臣政権の実力者となった千利休の生涯について迫る。
千利休の生い立ち
千利休は、大永2年(1522年)和泉国・堺の魚問屋「ととや」の主人・田中与兵衛の長男として生まれた。
幼名は与四郎で、号は「宗易(そうえき)」、後に正親町天皇から居士号「利休(りきゅう)」を与えられている。ここでは一般的に知られる利休と記させていただく。
家業の「ととや」は魚屋だったが、貸倉庫業や運輸業など手広く営み、裕福な家庭で育ったという。
利休の祖父・田中千阿弥は、室町幕府第8代将軍・足利義政の茶同朋をしていて、利休の千という姓は祖父の千阿弥に由来しているとされている。
堺の南宗寺で禅の修業を積み「宗易」という号を授かった。
利休は店の跡取りとしての教養や品位を学ぶために16歳の時に茶の湯の道に入り、17歳の時に北向道陳に師事した。
18歳になると当時の茶の湯の第一人者である武野紹鴎(たけのじょうおう)に入門し「千宗易(せんそうえき)」と名乗った。
ただし、一説には利休の師は武野紹鴎ではなく、辻玄哉だったという説もある。
19歳の時に父が死去したが、利休は「侘び茶(わびちゃ)」の精神に触れて茶人としての才能を現わし、23歳の時に自身最初の茶会を開いた。
天文11年(1542年)三好長慶の妹・宝心妙樹と結婚し、二人の間には長男・道安と4人の娘を設けている。
侘び茶
利休の師である武野紹鴎は「侘び茶」の祖・村田珠光が説く「不足の美」に禅の思想を取り込み、高価な名物茶碗を有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の簡略化に努め、精神的充足を追及して「侘び(わび)」(枯淡)を求めた人物であった。
彼には利休の他に今井宗久(いまいそうきゅう)・津田宗及(つだそうぎゅう)という高弟がいた。
利休は師の教えを更に進め「侘び」の対象を茶道具だけではなく、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。
当時の茶器は中国や朝鮮からの輸入品が大半であったが、新たに茶道具を創作し、掛物には禅の精神を反映させた水墨画を選んだ。
こうして利休は、「これ以上は何も削れない」という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し「侘び茶」を大成させた。
織田信長と千利休
利休が住んだ堺は、領主に支配されることのない国内一の自由貿易都市であった。
永禄11年(1568年)利休48歳の時、織田信長は商業の中心地である堺に目をつけ、直轄地にしようと武力侵攻した。
堺は商人の自治を守るために三好三人衆と共に信長に抵抗するも、信長の圧倒的な武力に屈し、信長に要求された矢銭(軍資金)2万貫を支払った。
信長は堺の鍛冶に鉄砲を作らせ、堺を鉄砲の供給地としたのだ。
新しい物に目がなかった信長は茶の湯に目をつけ、堺や京の町人から強制的に茶道具の名品を買い上げた。(信長の名物狩り)
武力や政治だけではなく、文化の面でも信長は覇権を目指し、許可を与えた家臣のみに茶会の開催を許した。
今までは武功の褒美として領土や城を与えていたが、それに代わって高価な茶碗を武功の褒美として用い、茶の湯をあらゆる面から利用したのだった。
これにより戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するものとなっていく。
名物茶釜と共に爆死した松永久秀
松永久秀は信長を何度も裏切ったが、信長は攻め滅ぼさなかった。その理由は久秀が持つ名物茶釜「平蜘蛛釜」である。
信長は「釜を差し出せば命だけは助ける」と言ったが、久秀は「信長には首も釜もやらん!」と返し、なんと釜に火薬を詰めて爆死したという。
このことは茶器一つに、武将の首や領土・城と同じ価値があることになり、その売買を仲介した堺の商人たちにも莫大な利益をもたらした。
茶会がステータスに
信長は堺とのパイプをより堅固にするために、政財界の中心人物であり高名な茶人でもある今井宗久・津田宗及・千利休の3人を茶頭(さどう・茶の湯の師匠)として重用し、利休は信長主催の京都の茶会に2度参加している。
豊臣秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興などの織田家臣団も茶の湯に励み、ステータスとなる高級な茶道具をこぞって欲しがり購入したという。
彼らの栄誉は信長から茶会の許しを得ることになり、茶の湯の師範役である利休は武将たちからも一目置かれる存在となる。
天正10年(1582年)6月1日、京都の本能寺で信長自慢のコレクションを一堂に披露する、盛大な茶会が開催された。
しかし、その夜に信長は明智光秀の謀反によって横死。信長所有の名茶道具は炎と共に散った。
豊臣秀吉と千利休
信長の死後、台頭した豊臣秀吉は信長以上に茶の湯に熱心な人物であり、秀吉は利休を茶頭にして茶室の侍庵を作らせ、大坂城内の庭園にも茶室を作らせた。
秀吉に感化された茶の湯好きの武将たちは競って利休に弟子入りし、後に「利休七哲」と呼ばれる蒲生氏郷・細川忠興・古田織部・柴山監物・瀬田掃部・高山右近・牧村兵部の高弟の他にも織田有楽斎など多くの武将が弟子入りした。
天正13年(1585年)10月、秀吉が関白就任の返礼である正親町天皇への禁中献茶に利休は奉仕し、この時に宮中参内するための居士号「利休」を賜り、「天下一の茶人」として全国にその名は知れ渡った。
この時からそれまでの「千宗易」から「千利休」と称し、この年に秀吉から黄金の茶室の設計を頼まれた。
生きるブランドに
秀吉は茶会を好んだが、本能寺で信長の大量の名物茶道具が焼失してしまい、自慢できる茶器が不足していた。
そこで利休は自ら創作し職人にも作らせたり、茶器の鑑定を積極的に行い新たな「名品」を生み出していく。
利休の鑑定は「天下一の茶人の鑑定」となり、世の人々は争うように利休が選んだ茶道具を欲しがり、利休の名声は益々高まっていった。
天正14年(1586年)秀吉に謁見するために大坂城に訪れた豊後の大友宗麟は、秀吉の弟・豊臣秀長から「内々の儀は宗易(利休)に、公儀のことは宰相(秀長)に」と伝えられたという逸話があるほど、利休は秀吉の側近として豊臣政権での存在が大きくなった。
天正15年(1587年)九州平定を終えた秀吉は、京都の北野天満宮の境内と松原において、利休・今井宗久・津田宗及を茶頭として史上最大の茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を開催した。
この茶会には武士や公家の他に、一般庶民にも「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と参加を呼びかけたために全国各地から大勢の人々が参加し、利休は総合演出的なことを任された。
会場には800か所以上の野点が並び、秀吉は拝殿に自慢の茶道具を展示し、自らも茶をたて人々に振舞い、この時に黄金の茶室の完成披露も行われた。
利休は完成した聚楽第内に屋敷を与えられ、築庭を担当したこともあり、その功で秀吉から3,000石の禄を与えられた。
茶の湯から茶道
利休の茶の湯は、政財界において多くの知己を得て「道」の域にまで高まっていった。
そして、「茶道」は芸術性を求める「侘び・寂び」に変化していった。
農民から天下人へと一気に駆け上がった秀吉は芸術や文化の素養は少なく、秀吉と利休は主君と側近であると同時に、弟子と師匠の間柄でもあった。
一輪の朝顔
二人の間には幾つかの逸話が残されているが、一番有名な「一輪の朝顔」を紹介する。
秀吉は、利休の庭に美しい朝顔が咲き乱れているという噂を耳にして「是非、見てみたい」と利休の屋敷を訪ねた。
しかし、庭には一輪の朝顔も咲いてはいなかった。がっかりした秀吉が茶室に入ると一際立派な朝顔が床の間に一輪だけ生けてあった。
利休は一輪の朝顔の美しさを際立たせるためだけに庭のすべての朝顔を切り取ったという。秀吉は利休の美学に感嘆した。
哲学者でもあった利休は「一休・孔子・キリシタン」などから多大な影響を受け、現代日本の「もてなし」「平等の精神」の基礎を築き上げた。
利休の美的センスは、全世界でも指折りだと断言する専門家も多くいるほどだ。
日本の美的センスの価値観を覆し、未だにそれを凌駕するものはいないとまで評されている。
利休が完成した「侘びの美」は現代日本の美的センスを根底から支えており、利休の「もてなし」の精神は「利休七則」に表現されている。
秀吉は茶の湯の権威が欲して「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。
しかし、利休はこの秘伝の作法を弟子・織田有楽斎に教えた時に「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と言った。
それは「自由と個性なり」である。秀吉が秘伝とした「もったいぶった作法」は重要ではないと否定している。
現存する国宝 待庵
利休が作った現存する国宝「侍庵(たいあん)」は限界まで無駄を削ぎ落した究極の茶室で、利休が考案した入口(にじり口)は間口が狭い上に低い位置にあり、いったん頭を下げて這うようにしないと中には入れない。
天下人である秀吉も同じようにしないと入れないし、武士の魂である刀を外さねばくぐれないのだ。
一度茶室に入れば人間の身分に上下の差はなく、茶室という中では「平等の存在」となる。茶の湯に関しては秀吉も利休には逆らえなかった、そういう世界を利休は確立したのだ。
茶道具を前もって飾っておかず、すべて茶室に運び入れるところからの点前を始める「運び点前」を広めたことが、利休の茶の湯の最大の貢献とされている。
秀吉と利休 関係悪化
利休と秀吉の蜜月な関係は「北野大茶湯」がピークであり、やがて二人の関係は悪化していく。
秀吉は貿易の利益のために堺に重税をかけるなど様々な圧力をかけ、堺の自主独立の象徴であった壕(ごう)を埋めてしまった。
利休は堺の権益を守ろうとするが、秀吉は疎ましく感じるようになっていく。
天正18年(1590年)小田原征伐の際には、北条方であった利休の愛弟子である山上宗二が投降後に秀吉への面会が許されたが、北条に義理立てした物言いが秀吉の怒りを買い、その日のうちに処刑された。それも耳と鼻を削がれるという残忍なものであった。
茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする素朴なものとは正反対である。
秀吉は自分なりに「茶」に関して一家言を持っていただけに、利休との対立が日を追って激しくなっていく。
天正19年(1591年)1月13日に行われた茶会において、利休は派手好きな秀吉が嫌う色「黒」を知りながら、「黒は古き心なり」と平然と黒楽茶碗に茶をたて、秀吉に出した。
この席には他の家臣もおり、秀吉のメンツは丸つぶれになった。
また、9日後の1月22日に秀吉の弟・豊臣秀長が病没してしまう。
彼は温厚・高潔な人物で、諸大名に対して「内々のことは利休に、公儀のことは秀長に」と公言するほど利休を重用していたため、利休は大きな後ろ盾を失くしてしまう。
それから1ヵ月後の2月23日、利休は秀吉から「京都を出て堺にて謹慎せよ」と命じられた。
大徳寺山門事件
利休が秀吉から謹慎を命じられた2年前、利休が京都の大徳寺の山門を私費で修復をした。
大徳寺の住職は、感謝のつもりで利休を模した雪駄履きの木像を、利休には知らせず山門に安置した。
その後、秀吉が大徳寺を訪れて山門をくぐった時「上から見下ろすとは無礼千万であり、通るたびに足で踏みつけられているも同じである」と、秀吉は激怒したという。
そして利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリさせようとした。
秀吉の意を汲んだ前田利家は利休に使者を送り、秀吉の正室・ねね、または秀吉の母・大政所を通じて詫びれば、この件は許されるであろうと助言をした。
しかし、利休はせっかくの助言に対し「権力の道具としての茶の湯は、侘び茶の開祖・村田珠光も、師・武野紹鴎も、絶対に否定したはず」と謝罪を断った。
秀吉に頭を下げることは利休の先輩茶人だけではなく、茶の湯そのものを侮辱することになるという思いで、赦しを請うことはなかったのだ。
利休には多くの大名の門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを恐れ、京を追放される利休を見送ったのは古田織部と細川忠興の2人だけだったという。
千利休 切腹
利休が謝罪に来ずに堺に行ってしまったことで、秀吉の怒りが爆発した。
2月25日、大徳寺の利休の木像は、山門から下ろされて京都一条戻橋のたもとで磔(はりつけ)にされた。
2月26日、秀吉は利休を堺から京都に呼び戻した。
2月27日、古田織部や細川忠興ら門弟たちが利休を救うために奔走する。
2月28日、この日は朝から雷が鳴り天候は荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が「切腹せよ」と伝えた。
この使者は、利休の首を持って帰るのが任務であった。
利休は「茶室にて茶の支度が出来ております」と、使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて切腹した。
享年69歳。利休の首は一条戻橋の木像に踏みつけられるように晒された。
なぜ千利休は切腹となったのか?様々な説
利休の死の原因は、大徳寺の山門説が直接の原因とされているが、それ以外にも様々な説がある。
・利休は名品となる茶道具の鑑定を行っていたが、安価な茶道具を高額で売り、私腹を肥やした疑いを持たれたという説。
・二条天皇陵の石を勝手に持ち出して手水鉢や庭石に使ったために、秀吉の怒りを買ったという説。
・豊臣秀長の死後、豊臣家臣団のパワーバランスが崩れ、石田三成にとって利休は眼の上のたんこぶのようになり、利休が側近としての価値が上がるのを恐れた三成が秀吉に「利休は危険人物であると告げ口をしたのではないか?」という説。
・無類の女好きだった秀吉は、利休の弟子に嫁いでいた次女を側室とするようにと命じたが、利休が「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否したために秀吉に恨まれたという説。
・朝鮮出兵を批判して秀吉の怒りを買ったという説。
・徳川家康と利休がつながり、秀吉の茶の中に毒を入れて秀吉を暗殺しようとしたという説。
他にも、前述した派手好きの秀吉の茶の湯と素朴を求める利休とのギャップ、堺の権益、天下人と茶人の間柄であるのに秀吉に逆らった、などがある。
千家
利休の死後、聚楽第にあった利休の屋敷は取り壊され、利休の嫡男・道安と娘婿・少庵は蟄居となり、千家は一時取り潰しの状態になった。
その数年後、道安と少庵は徳川家康と前田利家の取りなしで秀吉から赦免された。
道安は堺の本家千家の勝句を継いだが、早くに断絶している。
少庵は京千家の系統(三千家)のみが現在に伝わる。
豊臣家の茶頭の後継は大名茶人の古田織部がつき、秀吉没後、織部は徳川家康の命で2代将軍・徳川秀忠に茶の湯を指南し「天下の茶人」となった。
織部の自由奔放な茶は人気を得たが、家康は織部が利休のように政治的影響力を持つことを恐れるようになった。
そして、大坂の陣の後「織部は豊臣方と通じていた」と嫌疑をかけて切腹を命じた。
今も残る利休の茶の湯
少庵の息子・千宗旦が千家を再興し、宗旦の次男・宗守が「武者小路千家官休庵」を、三男・宗佐が「表千家不審庵」を、四男・宗室が「裏千家今日庵」をそれぞれ起こし、利休の茶の湯は400年後の現代にまで残っている。
しかし、利休・織部の切腹後は他の茶人たちは萎縮し、利休や織部のような新たな価値観や他とは違う茶の湯は危険視されたという。
それからは小堀遠州の保守的で雅な「きれい(綺麗)さび」とされる穏やかなものが主流となった。
おわりに
千利休の死から7年後、豊臣秀吉も病没した。
晩年の秀吉は利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとり、利休が好んだ枯れた茶室を建てさせたという。
利休の跡を継いで「天下の茶人」となった古田織部は、利休の教えである「人とは違うことしろ」を継承し「調和しない面白さを持つ、へうげもの」として人気を集めた。
しかし、古田織部は利休と同じように将軍(天下人)の意向に逆らうような言動をしたために、利休と同じく切腹させられてしまう。
これ以降、大名や将軍に直接意見を言えるほどの絶大な権力を持つ茶人は生まれなかった。
善の修行→禅の修行
三男・宗佐が「裏千家不審庵」→三男・宗佐が「表千家不審庵」
ですね。
修正させていただきました。
ご指摘誠にありがとうございますm(_ _)m