淀殿とは
淀殿(よどどの)は天下人・豊臣秀吉の嫡男・豊臣秀頼を生み、豊臣家の存続のために徳川家康と対立し、大坂夏の陣で秀頼と共に自害という壮絶な生涯を送った女性である。
浅井三姉妹の長女・茶々として生を受けた淀殿は「戦国一の美女」と賞された母・お市の方に似た美人であった。
親の仇でもある豊臣秀吉の側室となった淀殿の胸中はいかばかりか?
「女帝」「悪女」と称され、壮絶な生涯を送った淀殿について解説する。
淀殿の出自
淀殿(茶々)は永禄12年(1569年)、近江国(現在の滋賀県長浜市)の戦国大名・浅井長政と織田信長の妹・お市の方の長女として、小谷城で生まれた。
母・お市の方は信長の妹で、浅井家と織田家の同盟のために長政に嫁いだが、二人の仲は周りがうらやむほど仲睦まじく、永禄13年(1570年)には次女・お初、天正元年(1573年)には三女・お江が生まれ、浅井三姉妹と呼ばれるようになった。
母・お市の方は「戦国一の美女」と賞される美貌の持ち主で、淀殿(茶々)は母親似の美人であったという。
なお、淀君(よどぎみ)と言う呼び名もあるが「君」というのは遊女に付ける呼び名で、江戸時代に付けられた蔑称であり、戦国時代の史料には見られず、現在はほとんど使われていない。
ここでは淀殿(茶々)と記させていただく。
1度目の落城
天正元年(1573年)7月、叔父・信長が3万の軍勢で長政の小谷城を攻めると、長政は自害して小谷城が落城した。
これは羽柴秀吉(豊臣秀吉)率いる3,000の兵が、夜半に長政がいる本丸と父・浅井久政のいる小丸との間にある京極丸を占拠したことが大きかった。
お市の方と茶々・お初・お江の三姉妹は藤掛永勝によって救出されたが、兄・万福丸は捕らえられて信長の命により秀吉によって処刑された。
小谷城は廃城にした上で戦功のあった秀吉に与えられ、そこに秀吉は長浜城を築いた。
お市の方と三姉妹は叔父・織田信包の保護を受け、それから9年余り平穏に過ごしたとされていたが、近年の研究で叔父・信包ではなく織田信次に預けられた可能性が高く、信次が亡くなった後に信長の岐阜城へ移ったとされている。
信長は三姉妹のことを気にかけ、厚い待遇にて贅沢をさせていたという。
2度目の落城
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変で信長が自害すると、織田家の後継と遺領配分を決める清須会議が開かれ、それ以降秀吉と織田家筆頭家老・柴田勝家が対立した。
お市の方は柴田勝家と再婚し、三姉妹は越前の北ノ庄城に入る。
この結婚は勝家と秀吉が申し合わせて、清須会議で承諾を得て決まった。
勝家のお市の方への想いを組んで、秀吉が勝家の清須会議での不満を抑える意味もあり動いたという説もある。
しかし幸せな生活は束の間で天正11年(1583年)3月、賤ヶ岳の戦いで勝家は秀吉に大敗。勝家は北ノ庄城に戻ったが、秀吉の軍勢が迫り勝家はお市の方と三姉妹を城から脱出させようとした。
しかし、お市の方は勝家と共に自害を選び、秀吉に三姉妹の身柄を保護するように直筆の書状を送った。
お市の方は三姉妹に「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせて脱出させ、勝家と共に壮絶な最期を迎えた。
その後、三姉妹は秀吉の保護を受けることになった、この時茶々は17歳であった。※三姉妹の保護は織田信雄だという説もある。
淀殿
茶々は三姉妹の中でも一番お市の方に似て美人であり、そんな茶々を女好きの秀吉が放っておくはずもなく、側室にと申し入れる。
親の仇である秀吉からの申し入れに茶々は思い悩んだ。
次女・お初は天正15年(1587年)に京極高次に嫁ぎ、三女・お江は天正11年(1583年)頃に佐治一成に嫁いでいた。
妹たちの縁談は秀吉の計らいによるものであり、妹たちを先に嫁がせて茶々の婚期を遅らせたのは、秀吉が茶々を側室にするための策だったという説もある。
思い悩んだ茶々は天正16年(1588年)頃に、秀吉の側室となる道を選んだ。
この時の茶々の気持ちはいかばりであっただろうか?それを示す明確な資料は残ってはいない。
天正17年(1589年)5月27日、捨(鶴松)を産む。
この懐妊を喜んだ秀吉は茶々に山城の淀城を与えた。それ以後「淀殿」「淀の方」と呼ばれるようになった。
ここからは淀殿と記させていただく。
秀吉は53歳の時に、生後4か月の捨(鶴丸)を大坂城に入れて後継者とした。
しかし、捨(鶴松)は病弱で天正19年(1591年)8月5日に死んでしまう。
そのため秀吉は甥・豊臣秀次を後継者として関白職を譲った。
しかし、文禄2年(1593年)8月3日、淀殿は拾(豊臣秀頼)を産んだ。
秀頼の誕生に焦った秀次は、関白の座を逐われるのではないかと不安感で耗弱し、次第に情緒不安定になっていった。
そして文禄6年(1595年)、秀次は謀反の疑いをかけられ切腹させられてしまう。
秀次は北政所(ねね)の甥で、秀頼が生まれたために切腹させられたという説があり、淀殿と北政所の間には確執があったという説もある。
しかし、北政所は秀頼の誕生を喜び、むしろ2人は協調・連携した関係にあったと近年ではいわれている。
秀吉の死
慶長3年(1598年)、自分の死が近いことを悟った秀吉は、徳川家康ら五大老と五奉行を呼び秀頼への忠誠を誓約させた。
同年8月18日、秀吉が62歳で死去し豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意された。
秀吉の正室・北政所(ねね)は剃髪して高台院となったが、淀殿は剃髪せずに秀頼の後見人として大蔵卿局・饗庭局らを重用して、豊臣家の実権を握った。
淀殿は、北政所(ねね)と共に実質的な正室とみなされていたようで「両御台様(みだいさま)」と記された文書も残っている。
関ヶ原の戦い
秀吉の死後、徳川家康と石田三成らが対立。前田利家が死去すると家康が権力を掌握し始めた。
慶長5年(1600年)、ついに石田三成が大谷吉継らと共に家康を討つために挙兵し、毛利輝元が大坂城に入って西軍の総大将となった。
しかし、三成が切望した秀頼のお墨付きの発給や秀頼自らの出陣などを淀殿は拒否、淀殿は三成の行動を認めつつ豊臣家としては傍観する中立姿勢を取った。
家康は、淀殿から届いた三成挙兵の書状を材料として「秀頼様の御為」という大義名分を唱え、ついに関ヶ原の戦いとなった。
結果は家康の東軍が勝ち、家康は淀殿からの信頼が厚い大野治長を大坂城へ使者として送り「淀殿と秀頼が西軍に関与していないと信じている」と述べさせた。
淀殿はこれに対して感謝の旨を返答している。
毛利輝元が大坂城から退去すると、家康が大坂城に入り淀殿は家康を饗応。その際に淀殿は自らの酒盃を家康に下した後に、その盃を秀頼に与えるように強く求めた。
家康が秀頼の父親代わりになったと公に宣言したのだ。
家康は関ヶ原の戦いの恩賞を自らの考えで分配し、豊臣家の領地は大幅に減らされて大坂65万石のみとなってしまった。
大坂の陣
大坂城から家康らが退去すると、淀殿は秀頼の後見人としてまるで「女帝」のように豊臣家の中で振る舞った。
家康は江戸に幕府を開き秀頼に対して臣従を求めたが、淀殿はそれを拒否。そのようなことを余儀なくされるならば、秀頼を殺して自害すると主張した。
慶長8年(1603年)、秀頼は徳川秀忠とお江の娘・千姫と結婚する。
慶長10年(1605年)、秀忠が2代将軍となり徳川家が世襲することが決定的になると淀殿は激怒。家康と淀殿の対立は一層深まっていく。
慶長16年(1611年)、京の二条城で家康と秀頼が会見。その後、家康は全国の諸大名に幕府の命令に従うという誓詞を提出させたが秀頼はそれを提出しなかった。
慶長16年(1611年)~慶長18年(1613年)にかけて、豊臣恩顧の大名である浅野長政・堀尾吉春・加藤清正・池田輝政・浅野幸長が亡くなり、慶長19年(1614年)には頼みにしていた前田利長も亡くなってしまう。
方広寺鐘銘事件
慶長19年(1614年)、家康は方広寺の鐘の「国家安康」と「君臣豊楽」という文言にいちゃもんをつけ、そのことについて秀頼の重臣・片桐且元が駿府に出向き家康に申し開きを行おうとしたが、家康はなかなか且元に会わなかった。
そして家康は豊臣方に徳川・豊臣両家の親和を示す策を出せと要求する。
そこで片桐且元は「秀頼の江戸への参勤」「淀殿を江戸に人質」「国替えして大坂城から退去」という私案を提案した。
この私案に淀殿は激怒し、且元を裏切り者として扱い、且元は身の危険を感じて大坂城から退去した。
この一件を利用し、家康は「片桐且元は豊臣家の家臣であるが、家康の家臣でもある、秀頼が勝手に且元の殺害を企てた」として諸大名に対して大坂への出兵を命じた。
大坂冬の陣
淀殿らは豊臣恩顧の諸大名に連絡したが、期待した諸大名は誰も集まらず、浪人衆ら約10万人が大坂城に集まった。(大坂冬の陣)
後藤又兵衛・真田信繁(真田幸村)・明石全登・毛利勝永・長宗我部盛親が「大坂五人衆」として浪人衆を取り仕切り、豊臣方の作戦は籠城戦となった。
淀殿は武具を着て兵らに激励をして奔走したが、大坂城本丸に砲撃されて淀殿の侍女8人が死んだことなどから、家康からの和議を受け入れた。
この時、豊臣方の和議の使者は妹・お初(常光院)が務めている。
しかし、徳川方は和議の条件になかった堀まで埋めてしまい、大坂城は丸裸にされてしまう。
大坂夏の陣
慶長20年(1615年)、家康は再び大軍を率いて大坂城を攻めた。(大坂夏の陣)
一時、家康を自害寸前まで追い詰めるほど善戦したが、後藤又兵衛や真田信繁らが討死し、劣勢の挽回は絶望的になった。
淀殿と秀頼親子は天守閣に登って自害しようとしたが、家臣に止められる。
やがて天守閣が炎上し、淀殿と秀頼は山里丸に逃げるがそこも包囲されてしまう。
そこで大野治長は千姫の身柄の引き換えを条件に淀殿と秀頼の助命を嘆願したが、千姫の脱出後、秀忠の命で山里丸への総攻撃が開始された。
慶長20年(1615年)5月8日、淀殿・秀頼親子は大野治長らと共に自害して果てた。
秀頼と側室の子・国松も捕らえられて斬首された。
秀頼の7歳の娘・奈阿姫(天秀尼)は、お初や千姫が家康に助命嘆願し、鎌倉の東慶寺に入ることで許された。
悪女
家康に対抗したことで、淀殿は後世「悪女」と呼ばれた。
勝気な性格で気位が高くヒステリックであった淀殿は、家康に激しく抵抗し毅然とした態度で臨んでいたからだと推察される。
秀吉は53歳まで子供が出来なかったが、淀殿は2人も産んでいることから、秀頼は乳兄妹の大野治長の子だとされる説が当時からささやかれていた。
淀殿は秀吉の寵愛を一身に受け、秀頼の後見人となって豊臣家の実権を握ったが、豊臣家を滅亡に大きく関わっていたことから、日野富子・北条政子と共に「日本三大悪女」と呼ばれている。
おわりに
淀殿は父と兄を叔父の織田信長に殺され、母と義理の父を豊臣秀吉に殺され、親の仇である秀吉の側室となり、豊臣家の後継者である豊臣秀頼を産んだ。
秀吉は死の間際に秀頼の後見を家康に頼んでいたため、淀殿は秀頼が成長し関白職に就任するまでの間は、家康が秀頼に代わって政務を行うと信じていた。
しかし、将軍職は徳川家が世襲することになり、淀殿は家康と対抗、その結果、豊臣家は滅亡し大坂城は落城してしまう。
3度も落城するという壮絶な生涯を送った女性であった。
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