世界には多くの民族が存在する。その中でも特に戦争や戦いの中に民族のアイデンティティを持っている民族がいくつか存在している。
古代ギリシアのスパルタ人、ヨーロッパの北方民族ヴァイキング、中東のグルカ兵、オセアニアのマオリ族。
彼らは歴史上において戦いの中で活躍し、生活、文化そのものが戦いであった。
今回は航海術に長け、中世のヨーロッパ中を荒らしまわった民族、ヴァイキングについて解説する。
ヴァイキングの社会と文化
ヴァイキング(バイキング)とは、ヴァイキング時代(800年- 1050年)と呼ばれる約250年間に、西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンジナビア、バルト海沿岸地域の海賊を指す言葉である。
スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルドが「ヴィーク」と呼ばれていたため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。
彼らは北方系ゲルマン人で、ゲルマン民族である。
9世紀に入りスカンジナビア半島から南下し、ヨーロッパ沿岸部を襲い掠奪を繰り返していた。
彼らヴァイキングには統一した国はなかった。これはスカンジナビア半島の土地(フィヨルド)自体が狭く、食料を作るための農地が少ない事も関係していた。
彼らは人口増加による食糧不足の解決策として、民族の生き残りをかけて侵略と略奪のために船に乗り、ヨーロッパ沿岸部に進出していった。
ヴァイキングの社会構造は
1、 領主,族長(上流階級)
2、 農民,職人(中流階級)
3、 奴隷(下層階級)
の三つであった。
彼らの社会では農民や職人も参政権が認められており、女性の権利もしっかり存在した。
彼らの子供は民族の宝であり守るべきものとされ大切に育てたが、老人に対しては冷たく「人を助けられないようなものは生きる資格はない」とされた。
真っ先に犠牲になるのは老人であった。
労働源である若者を死なせるよりは、老人は死んだほうがマシという思想がヴァイキングにはあった。
航海術を得意としたヴァイキングであったが、航海に出るのは夏の間のみで冬場は航海をせず、厳しい冬は故郷で静かに過ごした。
船出すると、当分の間は船上生活をしなくてはならない。
航海中のメインの食事は干し魚や干し肉、パンなどの保存できる食事だった。船が木造であるため火を使うのは禁止されていたのである。
水は、大きな樽や皮袋に詰めて運んだ。
夜になると、船を岸に近づけて停泊し、野宿用のベッドや寝袋を用意して一夜を明かした。
船の上は吹きさらしで寒く一人で寝るのは体が温まりにくいので、皮の寝袋は主に二人用あるいは三人用で、お互いに抱き合って眠ったようだ。
ヴァイキングの乗る船は
1、 ロングシップ
2、 クナル
という船であった。
ロングシップは、喫水が浅い船で推進の浅い海を移動することが得意であり、襲撃や強襲にむいている。
クナルは大きな船で、輸送や貿易など長い航海に使われた。
ヴァイキングの舟は、当時地中海でパドルを漕いで推進力を得ていた船とは違い、帆を張り風を受ける事で推進力を得ていたため速力があり、外洋に出ても航行可能であった。
地中海では風が弱かったので、帆が発展しにくかったと言われている。
ヴァイキングの思想と北欧神話
ヴァイキングの思想は北欧神話に影響を受けている。
北欧神話は多神教であり、北ヨーロッパで信仰されていた神話である。キリスト教からは異端の烙印を押されていた。
北欧神話の神では『最高神オーディン』や『戦いの神トール』、『豊穣の神フレイ』が特に信仰の対象になっていた。
戦士として戦いの中で死ぬとヴァルハラ(戦士のみがいけるあの世)に行くことが出来て、オーディンと共にあの世の楽園で生活できると信じられていたので、彼らは戦いの中でも死を恐れずに勇敢に戦った。
戦いで亡くなった者は美女のワルキューレによってヴァルハラに連れていかれる。ヴァイキングが言う「ヴァルハラで会おう」というのは”戦死してあの世で会おう”という意味になる。
それゆえ戦場で臆病な振る舞いをすれば、当人の故郷まで悪評がついて回り、恥と破滅を家族にもたらしてしまう。
こうした固いつながりが生む仲間内での圧力も、ヴァイキングの強靭な強さに一役買っていたのである。
ヴァイキングの戦闘スタイル
ヴァイキングの戦闘方法で特筆すべきは、船を使った海上戦と強襲戦、襲撃場所、そして陣形であった。
海上戦
ヴァイキングの軍隊は船ごとに編成され、大抵は同じ村や町出身の男たち数十人で1つのグループを作っていた。
彼らは夏の大半を狭いヴァイキング船で肩寄せ合って過ごし、はるか遠くの目的地に向けて何週間も航海した。
その結果ヴァイキングは、自分の身が危うくなっても同胞が助けてくれると信じ、強い結束で戦いに臨めた。
いざ海上での戦闘となると船同士を括り付け固定し、船による陸地を形成して戦った。
敵の舟が接近してくると、彼らは敵船に乗り込み白兵戦で攻撃したのである。
強襲戦
ヴァイキングの戦闘能力が高いことは言うまでもないが、なぜ彼らがここまでヨーロッパ世界に恐怖を与えたかと言えば「ヒット・アンド・アウェイ」が得意であったからである。
彼らは前述した「ロングシップ」と呼ばれる喫水が浅く細長い舟を操った。ロングシップは帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。
また、陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。
このためヨーロッパの諸王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止できずに、甚大な被害を受けることになった。
修道院などの手薄な場所を狙う
当時の修道院は非常にお金を持っていた。
そこには金や銀でできた宝飾品も多数あったが守りは薄かったようで、略奪にはもってこいの場所であった。(キリスト教国家では修道院を攻撃することは神への冒涜であると考えられていたため襲われる心配をしていなかった)
キリスト教国同士であれば修道院を襲うという事は考えられなかったが、北欧神話を信仰するヴァイキングにとってはキリスト教の教義はどうでもよく、キリスト教の神に対する恐れも全くなかった。
陸地での戦闘
彼らは陸地で戦うときはくさび形の体系を作り、武器を掲げ叫び声をあげて猛突進した。怯える敵の体形を蹴散らし、一対一の戦いに持ち込んだ。
ヴァイキングの武器 防具
ヴァイキングが扱う武器は、槍が主であった。その他に斧や剣がある。
槍はリーチが長く、距離の離れた敵に対しても非常に有効な武器であり、製造も容易であった。
次に使われたのが斧であるが、片手で扱う「ハンドアックス」と、木でできた長い棒の先端に斧が付いた「ポールアックス」、投げて使う「投げ斧」がある。
斧が普及したのは比較的製造が容易で修理や刃を研ぎやすかったからである。更に戦闘になると敵の盾に斧を引っかけて隙を作り出すこともできた。
剣はヴァイキングにとって最も高価な武器であったが、製造技術があまり高くなかったヴァイキングの剣は、『ヴァイキングソード』と呼ばれ、もろく切れにくかったという。
ヴァイキング戦士の防具は、同時代の西欧の騎士と同様に、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。盾は木製の丸形の盾を使っていた。
角のある兜がヴァイキングのイメージとしてあるが、ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらなかった。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。
族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。
ヴァイキングの戦果
ヴァイキングは、その戦い方から大きな戦争による戦果はない。しかし彼らはとても遠くの土地まで航海して略奪、侵略をしていた。
・西ヨーロッパ諸国
・ブリテン島(現在のイギリス)
・アイルランド
・コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)
・アメリカ大陸
バイキングの強さは世界中に知られており、襲撃が始まるとすぐに降伏する都市もあったという。
ヴァイキングの名残り
時代を経るにつれ、ヴァイキング達は襲撃した土地へ住むようになっていった。
ヴァイキングの末裔は、アイルランド、アイスランド、グリーンランド、バルト諸国、スコットランド、イングランドへ移住したとされる。
各地に広がったヴァイキング達は、その地に根付いてキリスト教に改教して同化していった。
北欧各国との連絡も途絶え、各地に同化していったヴァイキングたちはヴァイキングとしてのアイデンティティーも失い、13世紀には活動を終え消滅していった。
ヴァイキングはその優れた航海術と戦術によってヨーロッパを恐怖に陥れた戦闘民族であったが、民族の生き残りをかけた対外的な活動は最終的に成功したといえる。
彼らはヴァイキングと呼ばれることも徐々になくなり、ノルマン人と呼ばれるようになり各地に定住していった。
彼らの神話の名残は今でも残っており、
火曜日 Tuesday = Tyr’s day チュールの日(北欧神話の天空神テュール)
水曜日 Wednesday = Wodan’s day ウォーダンの日(オーディン)
木曜日 Thursday = Thor’s day トールの日
金曜日 Friday = Freyja’s day フレイヤの日
として今でも使われている。
クリスマスツリーもバイキングの儀式で、樫の木にいけにえを吊るす習慣があった。樫の木はオーディンの聖木であった。
クリスマスツリーの飾り物は、人間や動物(いけにえの対象物)の名残である。
ヴァイキングの文化は現在でも生き続けている。
この記事へのコメントはありません。