江戸時代

江戸時代の殿様の暮らしとは 「女遊びで参勤交代に遅れて重臣が切腹」

一風変わった殿様たち

慶長8年(1603年)2月12日、戦国の世に終止符を打った徳川家康(とくがわいえやす)が江戸に幕府を開き、その後、江戸時代は約260年間も続いた。

その中には藩主と呼ばれた人物(殿様・大名)が3,500人以上はいたとされ、その中には名君と言われた大名がいた一方で、変わった大名やいわゆるバカ殿と呼ばれた殿様も存在した。

今回は風変わりな殿様たちを紹介しながら、江戸時代の殿様の暮らしについて前編と後編にわたって解説する。

殿様とは

江戸時代の殿様の暮らしとは

画像 : 徳川家康肖像画

江戸に幕府を開いた徳川家康は新たな武家社会の仕組み作りに着手、その中の1つとして武士の序列化を図った。

まず、徳川家の家臣のうち1万石未満の者を「旗本・御家人」とし、1万石以上の者を「大名」とした。
さらに大名の中でも御三家など徳川家の親族を「親藩」、関ヶ原の戦い以前からの家臣を「譜代」、関ヶ原の戦い以降の家臣を「外様」と区別した。

つまり殿様と呼ばれるのは1万石以上の大名のことである。家康が征夷大将軍になった時には186の藩があったが、それから少しずつ増えて日本全国で大小220以上の藩が出来て、幕末になると藩の数は260を超えていたという。

その中でも「老中」などの幕閣になれる者は譜代大名のみで、外様大名は幾ら石高が多くてもなれなかった。
また、「親藩・譜代・外様」以外にも家の由緒、所領の規模を表す石高、朝廷から与えられた官位によって「家格(かかく)」が決められ、それによって待遇が違っていたのである。

一例として、将軍に謁見するため江戸城に登城した際には、御三家などの親藩や有力な譜代大名、外様大名でも官位が従四位以上の大名は個別に将軍に拝謁することを許された。

しかし、官位が従五位以下の大名は大広間に集団で集められ、部屋の入口に立つ将軍に対して平伏したままで、将軍の顔を見ることさえも許されなかったのである。

戦国時代までは武力の強さによる序列化だったが、それだと絶えず戦が起こり強い・弱いが入れ替わるため、幕府としてはそれを固定化するために「家格」を持って序列化し、それによって戦を避けることにつなげようとしたのである。

大名(殿様)には幕府から様々な仕事や義務が課せられた。土木工事の手伝いやお金や品物の献上、江戸城の門の警備・警護なども課せられていたのである。

その中でも一番大変だったのは、1年ごとに国許と江戸を行き来する「参勤交代」であった。

参勤交代は見栄の張り合い

江戸時代の殿様の暮らしとは

画像 : 毛利家 参勤交代 wiki c

参勤交代は、3代将軍・徳川家光武家諸法度により制度化したものである。

大名は妻と嫡男を江戸に置き、大名は原則として江戸に1年、国許に1年住むことを義務付けられた。
当初は東国の大名が江戸に来ると西国の大名が国許に、1年後はその逆としたことが「交代」の本来の意味であったという。

大名行列の人数も石高によって決められ、一番石高が多かった加賀藩前田家102万5,000石は多い時で約4,000人、一番少なかったのは九州の五島列島にあった福江藩1万5,000石で、わずか37人だった。

参勤交代は城丸ごと引越するようなもので、その費用は莫大であり各藩の財政を苦しめたのである。

荷物を運ぶ人足も、参勤交代で専門に人足を手配する六組飛脚問屋という会社のようなものがあり、国許で専用な人足を雇うより、そこからいわゆるアルバイトの人足を雇う方が安かったために、各藩はその会社を利用した。

このように参勤交代には人足代や宿泊費など様々な費用がかかり、30万石位の大名の1回の参勤交代にかかる費用は、現在の価値で約2億円だったという。
しかも、大名行列は年を追うごとに次第に大所帯となり、より豪華になっていった。

そこで幕府は人数を制限するように各藩に度々命を下したが、宿場町や街道で見物している人々が「○○藩はどうだった」などと噂をするために、大名同士の見栄の張り合いで年々派手な行列になっていったのである。

そのため、幕府の思惑以上に各藩の出費は増える一方だったのである。

江戸の下屋敷は遊園地

江戸時代の殿様の暮らしとは

画像 : 松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 wiki c Panorama Perfect

江戸で殿様が暮らす大名屋敷は600ほどあったと言われ、「上屋敷・中屋敷・下屋敷」という3種類に分かれていた。

江戸城の近くにあったのがメインとなる上屋敷である。

御殿内は3つに分けられ「」は藩士たちが政務を行う場所、「中奥」は藩主の執務室兼住居、「」は藩主の妻子たちの生活の場だった。

中屋敷は世継ぎや藩主が隠居した時に暮らす場所で、下屋敷は別荘や倉庫・避難所として使われており、江戸城から離れた場所にあった。

下屋敷の中でも特に豪華絢爛で有名だったのが「尾張徳川家の下屋敷」である。

今の時代でいう遊園地またはテーマパークのようなもので、広さが13万坪もあり、庭園の中には人工の滝が造られた他、なんと原寸大で再現された宿場町があった。
それは東海道の小田原宿を参考に、酒屋や薬屋まで忠実に再現されていたそうだ。

江戸時代の殿様の暮らしとは

画像 : 新宿の戸山公園 かつて尾張藩徳川家の下屋敷エリアだった wiki c Kentin

下屋敷は大名たちのサロンにもなっていたため、招き招かれるために良い庭園を造って自慢し合ったという。

江戸に滞在中の経費も膨大で、国許でかかる倍ほどの経費がかかり、それも全て各藩の出費であった。そこで各藩は独自に特産物や名産品を作り、それを売って財政難に対処したのである。

また、参勤交代は決められた期日に江戸に到着しなくてはならず、理由も無しに遅れた場合は「蟄居・謹慎」という重い処分が下された。

しかし、中にはそれを分かっているはずなのに周りを困らせた殿様がいたようだ。

その人物は、弘前藩10代藩主・津軽信順(つがるのぶゆき)である。

江戸時代の殿様の暮らしとは

画像 : 津軽信順 wiki c

この殿様は別名「夜鷹大名」と呼ばれ、夜遊びが大好きで参勤途中の宿泊先でも毎夜酒と女の遊興三昧だったという。

出発時間になっても寝坊してしまい予定の時間に出発が出来なかったので、予定よりもどんどん遅れてしまったのである。

参勤交代の予定日程は14泊15日だったが遅れる一方だった。とうとう見かねた重臣が腹を切って自害し諌めたためになんとか間に合ったという。

そんな困った殿様もいたのである。
しかし津軽信順はその後も夜遊び癖は治らず、40歳の時に莫大な借金を作ってしまい強制的に隠居させられたそうである。

対称的に、持病に苦しみながらも参勤交代に遅れないために痛みに耐えて旅を続け、そのため宿場で亡くなった殿様もいたという。

後編ではさらに変わった殿様たちを紹介する。

関連記事 : 江戸時代の変わった殿様たち 「温水プールを作った、ブリ好きが原因で自害、7度も強制引っ越し」

 

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