テロに倒れた政治家 伊藤博文
伊藤博文(いとうひろぶみ)は、初代内閣総理大臣として日本の歴史にその名を刻んだ、誰もが知る明治の政治家です。
伊藤は、朝鮮の独立運動家であった安重根(アン・ジュングン)によって、1909年10月26日にハルビン駅において襲撃を受けその銃弾に倒れ、テロリストによる暗殺で世を去った事でも知られています。
このことからテロによる被害者としての印象が強い伊藤ですが、幕末においては実は伊藤自らもテロの実行者であったことはあまり語られていないと思います。
長州の志士として自らもテロに手を染めていた、若き頃の伊藤について解説します。
松下村塾への参加
伊藤は天保12年(1841年)に周防の林十蔵という農民の長男として生まれました。
後に父・十蔵が長州藩士の養子となったことで、伊藤も農民から武士・足軽の身分になったと伝えられています。
後に伊藤が内閣総理大臣に4度も就任し、日本政府の頂点に君臨したことを考えると昭和の時代に「今太閤」と称された田中角栄よりも、ずっと豊臣秀吉に近い人物ではないかとも感じられます。
伊藤は最下層の長州藩士ながらも、知己を得て吉田松陰の松下村塾で学ぶことになり、ここでの邂逅がその後の人生に大きな影響を与えました。
伊藤は入塾の翌年安政5年(1858年)には、松陰によって長州藩が京に上洛させる人物の一人に推薦されており、比較的に若い中で目を賭けられていたことが窺えます。
こうして伊藤は、翌安政6年(1859年)には長崎や江戸へも遊学に出かけることになりました。
佐幕派の暗殺
伊藤は、安政6年10月に安政の大獄によって松陰が処刑された際は、その遺体の引き取りに出向きました。
こうした政治状況の中で、一部長州の志士達は尊王攘夷思想を先鋭化させていき、この時18歳だった伊藤もその一員になっていきました。
そして文久2年(1862年)になると伊藤ら松下村塾に学んだ志士らは、当時の長州藩の政治の中心人物であり「公武合体」を唱えていた長井雅楽を暗殺する計画を立てます。
この計画は実行されませんでしたが、伊藤は激しさを増した高杉晋作らと共に、同年12月には江戸・品川御殿山にあったイギリス公使館の焼き討ちに加わりました。
そこで伊藤は山尾庸三とともに、塙次郎忠宝・加藤甲次郎を誅殺したと伝えられています。
この時21歳の伊藤は、尊皇攘夷思想の実践者として自ら白刃を振るい、佐幕派を暗殺するテロ行為を実行したのでした。
開国派への転換
伊藤はそのまま攘夷派として進んだ場合、ともすれば命を落としたかもしれませんでしたが、翌文久3年(1863年)に、仲間の井上馨(いのうえかおる)の声掛けでイギリスへと渡る事になりました。
これは長州藩士として先進国であるイギリスを検分する目的で行われた渡航、同年5月に井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉らと5人で海を渡りました。
この時、イギリスでの滞在期間は約半年ほどの短いものでしたが、英語の習得やイギリスの国力の大きさを知った伊藤は、この後それまでの攘夷思想を一旦捨てて開国を推進する側へと転換しました。
その後もあくまで攘夷に拘って命を落とした久坂玄瑞や吉田稔麿とは別の道を歩む事で、後に名を成すことになりました。
英語で総理大臣へ
伊藤はイギリスから帰国した元治元年(1864年)以降は、その英語力を買われて長州藩の通訳としてイギリスとの馬関戦争後の交渉や、その後の武器購入などに貢献しました。
一回のイギリスへの渡航が語学力という武器を伊藤に与えたことで、総理大臣への椅子を掴んだともされています。
これは、明治18年(1885年)12月から行われた政治機構の変更・内閣制度の開始に際して、初の内閣総理大臣に伊藤が就任することになった理由が、英語が出来たからと伝えられているためです。
本来、身分的に遥かに上の公家であり、太政大臣でもあった三条実美が有力とみられていた総理への就任に対し、伊藤と同じくイギリスへ渡航した盟友・井上馨が、英語ができる点で伊藤を強く推した事から決まったと伝えられています。
暗殺した塙忠宝の業績についてはスルーですか?