鎌倉殿の13人

巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか? 【鎌倉殿の13人】

巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか?

画像 : 『巴御前出陣図』wiki c

平安時代の末期、信濃国(長野県)に、ひとりの武者がいた。

勇猛に戦場を駆け、薙刀と弓でことごとく敵騎を討ち取ったその『女性』の名は 巴御前(ともえごぜん)

本来、女性が戦うはずのない時代に、男顔負けの強さを見せた彼女には不明な点も多いが、逸話も残っている。

彼女の強さは伝承どおりだったのだろうか?

木曾義仲の家臣として

巴御前

画像 : 源義仲(木曾義仲)像

源義仲 (みなもとのよしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将だが、木曾義仲(きそよしなか)の名のほうが知られている。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり

の有名な書き出しで始まる平家物語にも、巴御前共々その名が記されている。

同時期の皇族で後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の命により、以仁王の子である北陸宮(ほくろくのみや)を擁護すべく挙兵した。

寿永2年5月11日(1183年6月2日)の倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)では、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現富山県小矢部市-石川県河北郡津幡町)で、平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍との間で合戦が行われた。

このとき、義仲は10万とも言われる平維盛の軍を破るなどの戦績を残す。

しかし、その後は朝廷との不和、任された京の治安回復の失敗、法住寺殿襲撃などにより、権力こそあったがその人望は地に落ちていた。

そんな義仲に付いていったのがであった。

巴御前の素性

巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか?

画像 : 菊池容斎による絵

巴御前は生没年不詳である。

「御前」という名から高貴な血筋と思われるかも知れないが、御前という言葉には女性に対する呼び方の意味もあるため、血族を探る手がかりにはならない。

軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場するが、その名の通り、木曾義仲の最後の戦いで登場する以外に詳細はわかっていない。

幼少より義仲と共に育ち、力技・組打ちの武芸の稽古相手として義仲に大力を見いだされ、長じて戦にも召し使われたとされる。

源平盛衰記』では、倶利伽羅峠の戦いにも大将の一人として登場しており、平家物語との違いが見えるが、源平盛衰記が平家物語より後の時代に書かれたことを考えると、倶利伽羅峠の戦いに参戦していたかは疑問である。

さらに参戦していたとすれば、後述のような逸話のひとつも残すはずだが、それが確認できないことから、人物像については加筆されたと考えたほうがよい。

また、木曾義仲の妾とよく誤記されるが、正確には側近(側室)であった。

逸話

巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか?

画像 :『巴 (能)』の一場面、内田三郎の首をねじ切る巴午前(月岡芳年画)

源平合戦(治承・寿永の乱)で戦う、大力と強弓の女武者として描かれている。

巴は

色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり

と記され、容姿端麗ながら男の武者をも上回る実力を兼ね備えていた。特に弓術に優れており、馬上から相手の将を射抜くこともできたという。

源範頼・義経率いる鎌倉軍が、義仲のいる京へ向けて進行すると、義仲も軍を進め宇治川や瀬田での戦いが始まる。しかし、このときすでに人望がなく、有能な将兵が離れてしまった義仲にとって敗走は必然であった。

そこへ現われたのが巴御前である。

宇治川で敗走する義仲軍のなかに彼女はいた。すでに残る兵はわずかに7騎、5騎。それでも討たれずに義仲に追随する。

それを見た義仲が「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。女ならばどこでも生きるすべはある。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとした。

しかし、巴はその言葉に耳を貸さず、義仲は再三促さねばならなかった。

とうとうその言葉に折れた巴は「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、義仲たちと馬を離す。

そこで遭遇したのは大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重であった。巴はすぐさま馬を押し並べると、相手を引き落とし、その首を切ったという。

さらに別の説では、首を刎ねたのではなく「素手でねじ切った」、「馬で両側から敵兵に挟み込まれたときは、敵兵の首を両脇に抱え込み、そのまま腕を締めてねじ切った」などとも伝えられている。

その後、巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

史実との違い

巴御前の戦いぶりは伝承どおりだったのか?

画像 : 巴御前の墓と伝わる。義仲寺にて

鎌倉幕府編纂書の『吾妻鏡(あずまかがみ)』には、巴の存在は確認されない。

吾妻鏡は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書だが、編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることなどを考慮すると、事実だけが記されているとは断言できない。

当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として通用する戦闘訓練を受けている例は存在する。鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、女性であれ認められていた。

つまり、義仲と共に戦ったことはあったが、先述のような怪力無双ということは有り得ない。最後まで義仲に付いていたのは残りの兵が護衛したためだ。

それが後の世に「戦場で馬を駆る女性は珍しい」ということから、誇張して伝えられたのが巴御前の素顔であった。

最後に

その後、巴の話は、能や歌舞伎として広まった。さらには薙刀の身幅が広く反りの大きいものは巴御前にちなみ「巴型」と呼ぶ。

男の世界である戦場において、女性が活躍する話というのは古今東西、大衆を魅了するものなのだ。

 

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