和田義盛とはどんな人物か?
桓武天皇の皇子・高望王直系平氏三浦一族の分家筋が、和田氏である。
所領地は、相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市初声町和田)か又は、安房国(千葉県南部)和田御厨(神に供える食物を調理する所)と推定される。
和田義盛(わだよしもり)は、和田氏・祖「杉本義宗」の息子で、源頼朝の挙兵後に平家側と戦い戦死した三浦義明(享年89)の孫にあたる。
源頼朝挙兵時には、三浦一族と共に仕えた。
「平家物語」には、頼朝が平家打倒を成し天下に号令を掛ける時は自分を侍所別当、即ち軍事・警察長官にしてほしいと手を挙げたことが記されている。
治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)では、頼朝の弟・源範頼の下で戦奉行を務めた。
しかし義盛は、食料や船調達が上手く行かず、故郷に帰りたがっていたという記述が「吾妻鏡」にはある。だが不名誉な点ばかりではない。
「平家物語」では壇ノ浦の戦いにおいて、義盛が380~570mも遠くに弓矢を飛ばし、平家軍の度肝を抜いたとある。
平家側の強弓の使い手、仁井親清が矢を射返し義盛の腕前をあざ笑うと、義盛は怒りに任せて戦い平家側を圧倒したという。
その後、奥州合戦(源義経をかくまった奥州藤原氏の討伐)にも従軍した。
しかし同じ平氏一族・畠山重忠と、奥州藤原氏の長子・国衡をどちらが打ち取ったかで言い争う。
鎌倉殿の13人で横田栄司が演じているように、短慮で直情型の性格だったようである。
1180年(治承4年)、頼朝が鎌倉に侍所を設置した時、望み通り侍所別当に任命された義盛だが、1192年(建久3年)侍所別当職は梶原景時と交代となった。
「吾妻鏡」には、領地へ帰る間だけ預けたつもりが、景時の策略で奪われたと記されている。
しかしその後の「梶原景時の変」で景時が失脚すると侍所別当に返り咲いた。
和田義盛と北条義時は何故対立したのか?
和田義盛が、執権・北条義時と対立するに至った理由とは何か。
主な理由として2つ考えられる。
1. 上総国司(千葉県中央部行政長官)を源実朝にねだった事
2. 信濃国(長野県)源氏血筋武将「泉親衡」の謀反企てに、義盛の子息と甥が関わった事
1は、有力御家人・梶原景時や比企能員、畠山重忠が次々粛清され、頼朝を支えた安達盛長や三浦義登ら大物も死去した時期であり、義盛にとっては重石が外れた状態であり、本家三浦をしのぐ勢いがあった。
調子に乗りやすい彼は、意気揚々と実朝に上総国司を願った。
しかし実朝は父・頼朝のような専横を真似ず、母・北条政子の助言を求めた。
こうして周りからの圧力により、義盛の野望は阻止された。
2は、深刻で決定的な決裂となる。
泉親衡は、暗殺された二代目鎌倉殿・頼家の遺児「千寿丸」を押し立てて兵を挙げた。
そして、かつて頼朝政権下の重鎮だった千葉常胤の孫・成胤(なりたね)に、謀反助力を乞う使者を送った。
しかし成胤は使者を捕らえ、北条義時の元に連行したのである。
こうして使者の自白から、謀反に賛同した武士約300名が割れたが、なんとその中に和田義盛の子息・義直、義重と甥の胤長がいたのである。
当然彼らは、罪人として捕まった。
事件発覚時、義盛は鎌倉を留守だった。
事態を知ると急いで戻り、実朝に一族の釈放を懇願した。
今までの功績から、義盛の子息・義直、義重は許されるが、甥の胤長は外された。
ここで止めて置けば良かったが、義盛は甥の釈放を求め、一族で鎌倉殿御所へ向かった。
結局、胤長は流罪となり、胤長の鎌倉屋敷は没収されたが、義盛は「罪人の屋敷は一族の者に下げ渡されるのが慣例である」と実朝に願って、屋敷はなんとか貰い受けた。
しかし一週間後、義時は突然態度を変え、旧胤長屋敷は「泉親衡の乱」の鎮圧に尽力した者たちへ授けられたのである。
度重なる義時の挑発に、ついに義盛は挙兵を決意したのである。
義盛が一族を率いて戦った和田合戦とは?
「泉親衡の乱」の後始末に、強烈な不満と恨みを持った義盛。
しかし執権・義時側から見ると、義盛の子息たちは許したものの首謀者として非常に疑わしかった。「泉親衡の乱」の後ろ盾は、実は和田義盛と子息たちではないかと推測したのである。
だからこそ和田氏一族以外の御家人たちは直ぐ解放し、和田胤長の処罰を厳しくし、義盛に警告を与えた。
しかし頭に血が上った義盛に警告は通じなかった。
更に、鎌倉殿御所まで徒党を組み、要求を通そうと押し寄せた。
これは執権の立場とすれば、ルール違反と云える。
胤長の流罪から約1ヶ月後、ついに義盛の謀反の噂が飛ぶ。
北条排除に向け義盛は、三浦一族総出で参戦するように約束を取り付けた。
それから、二週間後、義盛館へ続々と兵が集まり始め、遂に御所を襲撃したのである。
義時は、姉・北条政子と実朝の正室を鶴岡八幡宮へ移動させ、御所警護を指揮した。
ここでなんと三浦義村が幕府側に寝返り、義時の次男・朝時と共に戦った。
義盛の三男・朝比奈義秀は信じらぬ気力・体力を見せて戦ったが、多勢に無勢で退却となる。
翌日、援軍3000騎で和田軍は盛り返す。
しかし実朝が「和田軍追討令」をそれまで静観していた他の御家人たちに下すと戦況は急展開となり、鎌倉内で壮絶な市街戦が繰り広げられた。
18時過ぎ、ついに和田義盛は討たれ、息子の三人(義重、義信、秀盛)も討ち死となった。
和田合戦は、和田氏・234人の死を持って終結したのである。
三浦一族内の主導権争い
和田合戦は、和田義盛と北条義時の対立だが、義盛の従弟・三浦義村が陰の主役である。
実は三浦義村には、義盛を追い落とす動機があった。
和田氏は三浦一族の分家にありながら、義村より年長者で侍所別当の権勢もあった。
「治承・寿永の乱」や「奥州合戦」等、戦功者としても名高い。
さらに義盛は実朝に近づき仲が良く、裏表のない性格は周りから慕われていた。
一方、三浦義村はどうか。
彼は、義盛とは真逆な性格だったのではないだろうか。
鎌倉殿の13人でまさに山本耕史が演じているように、慎重で、鋭い観察眼を持って状況分析する戦略家タイプだったことがうかがえる。
この時代、一族存亡を決めるのは、当主が何を選択するかによる。
和田合戦で義村が選んだのは義時だった。
義村は味方のフリをして義盛陣営に加わり、反乱計画を義時に伝える役を務めた。
だからこそ、政子たちは無事に御所を避難できた。
彼は、和田合戦を陰から操り、勝利に導いたゲームメーカーと言える。
参考文献
鎌倉殿」登場!源頼朝と北条義時たち13人 大迫秀樹 編著者
鎌倉幕府と北条義時 見るだけノート 小和田哲男 監修
「調子に乗りやすい彼は、意気揚々と実朝に上総国司を願った。
しかし実朝は父・頼家のような専横を真似ず、母・北条政子の助言を求めた。」
とあるが、実朝の父は頼朝で、頼家は兄。
ケアレスミスですね。
修正させていただきました。ありがとうございます!