江戸時代

徳川家斉 「大名はみんな俺の子供」なぜ子を押し付けたのか? 大名家ファミリー化計画 〜後編

徳川家斉

画像 : 徳川家斉 public domain

前編では53人もの子供を作った女好きの「オットセイ将軍」である徳川家斉の「大名家ファミリー化計画」について解説した。

家斉は自身の子供たちを、全国の大名たちに婿や姫として送りつけ、血縁としようとしたのである。

今回はなぜ家斉が「大名家ファミリー化計画」を実行したのか?そしてその顛末について解説する。

ファミリー化の動機

なぜ家斉は、そこまでして大名家ファミリー化計画を推し進めたのか?
それは当時の幕府が抱える危機感が関係している。

家斉が統治した時代になると、外国船が日本近海に多く現れるようになった。
蝦夷地の根室にロシアが通商を求めに現れ、イギリス船が長崎港に侵入するなど外国からの脅威にさらされたのである。

当然、鎖国政策をとる幕府は「異国船打払令」を発したが、中には幕府に内緒で勝手に外国と密貿易を行っていた藩もあり、幕府の打払い令に対して足並みが揃わなかった。

そこで家斉は「自分の子供たちで全国の大名家をファミリー化すれば、結束が高まり将軍の命令に従いやすい状態になる」と考えたのだ。

養子に入った殿様は、幕府の命令に従おうと海岸線の防備・警護に力を入れた。
しかし、徳川一門の結束という問題もあった。

家斉が特に気にしていたのが、尾張藩徳川家であった。

徳川家斉

画像 : 尾張藩初代藩主 徳川義直

尾張藩は御三家筆頭の62万石で徳川家康の九男・義直を初代藩主とした名門である。

しかし初代義直の血縁が8代続き、将軍家との血縁がすっかり薄くなっていた。また8代将軍の座が紀伊藩主・吉宗になったことで、尾張藩7代藩主・徳川宗春は吉宗と対立して蟄居・謹慎となり家格も下げられてしまい、尾張藩と将軍家の間には緊張状態が続いていたのだ。

そこで家斉は、娘を尾張藩に嫁がせて藩主との間に跡継ぎが生まれれば、その子は家斉の孫となると考えた。
そして5歳になったばかりの長女・淑姫(ひでひめ)を尾張藩の嫡男と婚約させたのである。

しかし、その同じ年に世継ぎとなる尾張藩の嫡男が病死してしまい、家斉の計画は失敗したかに思えた。
そして3年後、家斉は尾張藩に4男・敬之助を養子として送り込んだが、1年後に病死してしまった。

それでも家斉は諦めずにその1年後、自分の弟の子・一橋家の長男を尾張藩主として送り込んだのである。

その子は尾張藩10代藩主・徳川斉朝(とくがわなりとも)となり、その正室として家斉の長女・淑姫を嫁がせた。

こうして家斉の尾張藩ファミリー化計画は成功したのである。

尾張藩との確執

徳川家斉

画像 : 徳川斉朝

尾張藩主・斉朝は統治を順調に続けていたが、淑姫との間になかなか世継ぎができなかった。

そこで家斉は、夫婦の養子として自分の19男・斉温(なりはる)を送り込んだ。
斉温は斉朝の跡を継ぎ、わずか9歳で尾張藩11代藩主となった。

しかし斉温は病弱だったので江戸藩邸に常住し、一度も尾張藩領内に入ることがなく21歳で亡くなってしまった。
亡くなった斉温には世継ぎがいなかったために、家斉は自分の12男・斉荘(なりたか)を田安家当主から、強引に末期養子とさせて尾張藩12代藩主とした。

これは幕府や家斉の一方的な命令によって行われたために、さすがに尾張藩内でも大きな反発を生んだ。
強権派な藩士たちは「幕府の命に従うのはおかしい」と反発して「金鉄組」というものを結成してしまう。彼らは後に倒幕派となっている。

家斉は尾張藩をなだめるために、当時の有数な商業地・近江八幡を加増した。
さらに8代将軍・吉宗と対立して蟄居・謹慎となった宗春の罪を許し、官位も元に戻した。

斉荘が尾張藩主となったのを見届けた家斉は、その2年後69歳でこの世を去った。しかし、その4年後に斉荘も病死してしまう。

斉荘の跡を継いだのはやはり家斉の血脈、田安家第3代当主の10男・徳川慶臧(とくがわよしつぐ)で、13代の尾張藩主となった。

尾張藩内では度重なる押し付けに落胆・憤慨し、中には幕府と一戦交えるなど強硬な意見も出て、幕府と尾張藩はますます剣悪になった。

慶臧は尾張藩主となってわずか4年後に病没してしまう。

次の尾張藩14代藩主には初代藩主・義直の流れを汲む美濃高須藩松平家の徳川慶勝が継ぎ、尾張藩は家斉ファミリーではなくなった。

徳川家斉

画像 : 徳川慶勝

ファミリー化の失敗

幕末、倒幕に動いた長州藩は、かつて家斉の娘を正室として迎えていたが、世継ぎが生まれずに家斉の血筋とはならなかった。

このように家斉の子供を送り込まれた21家の中で幕末に家斉の血筋が当主となっていたのは、加賀藩前田家・徳島藩蜂須賀家・鳥取藩池田家・姫路藩酒井家の4家のみであった。
しかし幕末の動乱時にこの4家が幕府側につくことはなく、鳥羽・伏見の戦い以降は新政府軍に味方している。

尾張藩主・徳川慶勝は新政府の要職につき、江戸攻めの進路にあたる大名たちを新政府側につくように説得し、江戸城無血開城の受け取り役も尾張藩が務めた。

家斉が50年もかけて行った「大名家ファミリー化計画」は、結局のところ徳川幕府を支えることはできなかったのである。

おわりに

家斉は53人もの子供を設けたが、約半数の25人が成人できずに亡くなっている。

家斉の時代は江戸の町が一番活気に溢れていた頃だったが、天明の大飢饉や外国からの脅威に備えなければならず、全国の諸大名はなかなか幕府の命令を聞き入れてはくれなかった。

そのため莫大な資金を使って大名家を徳川一門として結束させる「大名家ファミリー化」を実行したが、その結果は家斉が思い描いたものにはならなかったようである。

関連記事 : 徳川家斉 「53人の子を作った女好きのオットセイ将軍」の大名家ファミリー化計画 〜前編

 

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