NHK大河ドラマ「どうする家康」では、個性的な役者たちが色とりどりに様々な武将を演じている。
その中でもイッセー尾形氏が演ずる鳥居忠吉(とりいただよし)は、滑舌が悪すぎて何を言っているか良くわからないお爺さんという、インパクト強めのキャラ設定となっている。
今回は、そんな鳥居忠吉が史実では一体どんな武将だったのか?わかりやすく解説する。
家康の祖父の代から仕えた三河譜代
鳥居忠吉は、家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)の代からの家臣で「三河譜代」である。
三河譜代とは徳川家の家臣団の中でも最古参の譜代の家臣たちのことで、さらに三河譜代の中でも区分があり、松平清康より4代前の松平信光の安祥城時代からの家臣は「安祥譜代」。清康が山中城を攻略した前後に仕えた家臣は「山中譜代」。清康が岡崎城を攻略した後に仕えた家臣は「岡崎譜代」とされ、「三ご譜代」という。
ただしこの区分は文献によっても多少の違いがあり、三河譜代は広義には「家康の岡崎城時代までに家臣になった者」を指す場合もある。
鳥居家は忠吉の代から、家康の祖父・松平清康の家臣となったが、それ以前の動きや先祖などについて詳しいことははっきりしていない。
そして鳥居忠吉は三河譜代(岡崎譜代)ではあるが家老クラスではなく、家柄的な格式はさほど高くなかったようである。
家康との年齢差
鳥居忠吉の生年は不明となっている。
ただし家康の祖父の代からの家臣であること、後に「三河武士の鑑」と称される三男の鳥居元忠が、家康の3つ上の年齢であること、80余歳で死去したという言い伝えもあることから、1490年代の生まれではないかと推測できる。
家康が1543年生まれなので年齢差は50歳ほどあったと見てよい。
つまり「どうする家康」でのイッセー尾形氏のキャスティングは、きちんと正しく時代考察された上での面白可笑しい演出となっている。
安祥合戦で活躍
安祥合戦(あんじょうがっせん)とは、織田氏 vs 松平・今川氏との約10年にわたる戦いである。最初の戦いは1540年に織田信長の父・信秀が三河進出を企図し、安祥城を攻撃したことから始まった。
この戦いの主な指揮官は、織田勢が信長の父・信秀と異母兄の信広。松平・今川勢が家康の父・松平広忠と、今川義元、太原雪斎であった。
安祥合戦終盤の1549年、「黒衣の宰相」と呼ばれた太原雪斎の指揮の元、織田信広が生け捕りにされて松平・今川軍が勝利した。
鳥居忠吉は信広を生け捕りにする際に、大きな働きをしたとされている。
信広が生け捕りにされ人質となったことで、当時織田の人質となっていた幼い家康(竹千代)と信広とが人質交換された。こうして家康は元の予定だった今川家の人質となり、家康が生きて戻ったことにより松平家は断絶を免れたのである。
そういった意味では、鳥居忠吉は徳川家の命運に関わる働きをしたことになり、非常に大きな功績と言える。
今川の管理下で財産を貯める
家康が今川家の人質だった時代、岡崎城は今川から城代が派遣されて今川の管理下にあった。収穫の多くは今川に徴収され、松平勢は貧していた。
そのような状況の中で惣奉行であった鳥居忠吉は、家康に衣類を送って支援したり、いつか家康が戻って来る時のために蓄財をした。
ある日、家康が一時的に岡崎城に戻った時、忠吉は貯めた財産を家康に見せて「いつか岡崎城主になられた時は、この財を使って将兵を集め、威名を知らしめてほしい」と語り、二人は涙したという。
鳥居忠吉がなぜお金集めが上手かったのかというと、農商を業とする商人型の武士だったためとされている。『永禄一揆由来』や『三州一向宗乱記』にも忠吉の商いのことが書かれており、かなりの経済力を持っていたようである。
その後は、桶狭間の戦いにも従軍し、三河一向一揆の際にも家康方として活躍した。
こうした鳥居忠吉の忠臣ぷりは、朝廷にも知られるほど有名であった。
忠吉は1572年に死去し、鳥居家の家督は三男の元忠が継いだ。
終わりに
鳥居忠吉の三男・元忠は、幼き人質時代の家康の従者として仕え、家康と共に初陣も飾った。
後に石田三成が挙兵した際には、元忠は自ら捨て駒として死地に赴き討ち死し「三河武士の鑑」と称された。
鳥居一族には忠臣の血が流れているようである。
参考文献 : 徳川家臣団の系図
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