どうする家康

【どうする家康】 家康の今川からの独立から遠江獲得まで流れを改めて見る

NHK大河ドラマ「どうする家康」もついに大坂の陣編へと突入し、物語はいよいよ佳境を迎えている。

今回は徳川家康(松平元康)が独立するきっかけとなった1560年の桶狭間の戦いから、浅井・朝倉連合に対して織田信長と共闘することになった1570年の姉川の戦い、その間の10年間を改めて振り返ってみたい。

家康、独立後の10年間年表

画像 : 徳川家康 孟齋芳虎画「三河英勇傳」より『従一位右大臣 征夷大将軍源家康公』

ここではわかりやすく、年表で簡潔に解説する。


1560年5月上旬:松平元康(家康)は、今川方として桶狭間の戦いに参戦し、先鋒を任される。

同年5月19日:桶狭間にて織田信長今川義元を討つ。織田方の水野信元は甥の元康のもとへ使者を出して義元が討たれたことを報告し撤退を促す。元康は今川の敗残兵を確認など状況を把握した後、夜のうちに退城する。

同年5月20日:元康は、菩提寺の大樹寺に入る。

同年5月23日:今川軍が岡崎城を退去したのを確認した後に、元康が岡崎城に入る。この頃から独立のために動き始める。

1561年2月:将軍・足利義輝に献上品を出して、独立領主として幕府の承認を得ようとする。

同年4月:元康率いる松平軍は、今川方の拠点であった牛久保城を攻撃する、これは今川からの決別、独立戦争の開始ともいえる。

同年4月15日:元康と三河の名族・吉良義昭との間で『善明堤の戦い』が起こるが、松平軍は吉良氏の居城・東条城が落とせず吉良軍の勝利となる。

同年9月:再び、東条城をめぐって吉良氏と『藤波畷の戦い』が行われるが、今度は松平軍が勝利し、相手指揮官の富永忠元が戦死して東条城陥落となる。

画像 : 織田信長 public domain

1561年:伯父・水野信元の仲介もあり、信長と正式に和睦する。さらに今川氏と断交して信長と同盟を結ぶ。(清洲同盟)

同年4月:西が安全になり独立のための下準備が整ったので、今川氏との本格的な戦いがスタートする。

1562年:元康は信長と直接会って会談し、同盟の細部を再確認し関係をさらに強化させる。この頃、今川氏真が将軍・足利義輝に仲介を頼んで松平と今川の和睦を試みるが失敗する。

1563年:元康は『元』を捨てて「家康」と名乗る。さらに花押の形を変更し今川との関係を完全に断ち切る。この頃から三河一向一揆が発生し始める。

同年3月:家康の嫡男・竹千代(信康)と信長の娘・五徳が婚約する。

1563年~1564年:三河一向一揆と連動し、吉良義昭以外に桜井松平氏や大草松平氏までも動き出す。さらに一向宗門徒であった本多正信、蜂屋貞次、夏目吉信、渡辺守綱など部下たちが大勢敵に回る。後に「家康の三大危機」と呼ばれるほど苦しい戦いとなる。

1564年:苦戦しつつも三河一向一揆を鎮圧し、一向一揆勢力の解体に成功する。

1565年~1566年:今川氏との間で宝飯郡などで戦を繰り返し、今川勢をどんどん東に追いやっていく。

1566年:東三河・奥三河の平定に成功して三河国を統一する。家康は朝廷から藤原氏として従五位下三河守に叙任される事になり、苗字を『徳川』に改めて徳川家康となる。

1568年:信長の上洛に合わせて、家康も松平信一を援軍として出す。

同年12月:武田信玄が今川領駿河への侵攻を開始する。家康は信玄と駿河と遠江を分け合う形で同盟を結び、家康は遠江への侵攻を開始する。

1569年1月:信玄が約束した分の領地を越えて侵攻したことから、同盟はすぐに手切れとなる。

同年5月:今川氏真が移り住んでいた掛川城を攻略し、遠江国を支配下に置くことに成功する。家康は北条氏康と手を組み、信玄をなんとか遠江から追い出す。

1570年:家康は岡崎城から遠江国の曳馬城に移り、浜松と改名する。

1570年5月:織田・徳川連合軍が京に向かって出陣するが、浅井が裏切り金ヶ崎の戦いが勃発する。徳川軍が殿(しんがり)となって信長本隊の撤退をサポートする。

同年8月9日:姉川の戦い(織田・徳川 vs 浅井・朝倉)に参戦し、辛勝する。


桶狭間の戦い後、岡崎城に入ってからの家康の10年間を振り返ると「ずっと戦いっぱなし」なのである。ほぼ毎年戦をしている。

しかもその戦いの多くは命からがらの激戦なのである。

特に1570年(元亀元年)は姉川の戦い後、信長の援軍として出陣しており、なんと年に三度も出陣している。

独立後、これだけ激戦を続けてきた三河武士たちは戦国屈指の精強な兵となり、秀吉ですら勝てなかった。唯一敗北したのは武田軍くらいである。

こうして苦労に苦労を重ねてきた徳川勢は、最終的に天下の覇者となったのである。

参考 : 『三河物語』他

 

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