中国史

兵馬俑は生きた人を使って作ったのか? 「始皇帝の陸墓」

始皇帝

兵馬俑を作った始皇帝の一生を一言で言えば、言わば英雄そのものだった。

自ら一代での大群を率い中原を統一し、封建制度を確立し度量衡や文字を統一した。多くのものを後代に残し中国史に大きな影響を及ぼした人物である。

彼は生涯を通じて不老不死を願い多くの薬物や方法を試した。不死のため水銀を服用していたという逸話も残っている。

天下統一を成し遂げた偉大な人物も、当然のことながら老衰と死から逃れることはできなかった。自身の死期が近づいていることを知り不老不死が叶わない夢だと悟ると、今度は自分のために壮大な墓を建てる計画を立て始めた。

それが世界の八番目の奇跡と呼ばれる「兵馬俑(へいばよう)」である。

兵馬俑の発見

兵馬俑は生きた人を使って作ったのか?

兵馬俑

この奇跡が発見されたのは一つの偶然からである。

西安の農民が井戸を掘っていると地下の石板が砕けて倒壊してしまった。底に大きな空間があったのである。

農民はこれは只事ではないと通報し調査が始まった。

警官がきてみると驚くことに空間だけではなく、多くの人型の土偶が出てきたのである。

調査の進展

兵馬俑は生きた人を使って作ったのか?

兵馬俑発掘の様子。欠けたものが発掘された

すぐに国に報告があがり、考古学チームは早速調査を始めた。

研究の結果、それが始皇帝が残した兵馬俑であるという結論に至った。その生き生きとした表情はまるで人を使って型取ったかのようだった。

その精巧さに「生身の人間を使って兵馬俑を作り、中にはその人の遺体があるのではないか?」と推測する研究者もいた。

生きた人を使って焼かれたのか?

このような推測がされたのにも十分な理由がある。

なぜなら古代の文献に、貴族(位が高い者)の死後、自分の子供、奴隷、女性、金銀財宝などが一緒に埋められたという記録があるからだ。それは死者が死後も愛する家族と暮らし、生活を楽しむためであった。歴代王朝の皇帝埋葬の際もそのようにした例が多いのである。

秦国の皇帝の権力は非常に大きく、当然のように生きた人が焼かれて兵馬俑が作られたのではないかという可能性が模索された。しかし兵馬俑が出土した時、状態が非常に良く欠けている物が少なかったため、この貴重な土偶を割って確認することはできなかった。

そして何年かが過ぎ技術の発展と共に内部の成分解析が進み、兵馬俑の真相が明らかになってきたのである。

兵馬俑は生きた人を使って作ったのか?

表情や顔形は様々で同じものはなかったという

真相は?

内部の元素分析の結果、兵馬俑は「生きた人を焼いて作ったのではない」ということが証明された。

もし生きた人を使ったのであれば、人の体の中の多くの物質が土の中に閉じ込められたことになる。研究の結果そのようなものは発見されておらず、兵馬俑の中に人骨も見つからなかった。

兵馬俑は秦の職人が特別に選んだ土を使い、特殊な工芸処理をした後に焼いて作られたものであった。研究者は多くの破片から表情は一体ずつ違えども、その体と頭部の大きさはおおよそどれも同じであるということが判明した。もし生身の人を使ったのであれば、それは有り得ないことである。

秦の職人は型取りという方法を使っていた。型に泥土を流し込み空洞の土の人形を作り上げたのだ。この型取りの方法で職人は多くの時間を短縮でき、分担して作業ができた。

頭部に関して言えば頭の大まかな形をまず型取りで作り、そこから職人が一つづつ丁寧にその表情を彫刻していった。そうすることで表情や顔が重複することを避けることができた。それがあまりにも精巧だったために「生きた人を使ったのではないか?」という錯覚をもたらしたのである。

兵馬俑はおよそ8000体ほどあると考えられている。もし始皇帝が8000人もの精鋭の命を自分の埋葬のために犠牲にするような皇帝であれば、秦は中国を統一できてなかったかもしれない。

兵馬俑は現在でも発掘調査中であり、今後も興味深い発見があるだろう。

 

アバター

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Audible で聴く
Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く

コメント

  1. アバター
    • 名無しさん
    • 2024年 11月 28日 6:58pm

    調査した学者グループが示されていないが、中国の学者グループが調査したならどこまで真実を公表しているか定かでない。
    この点は真実がはっきりしていないのではないか?
    人体を使っていないという明確な証拠がしめされていないのでは?

    1
    4
  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. チャイナドレスの起源 ~満州族の伝統衣装「旗袍(チーパオ)」の歴…
  2. 隋朝末期の3人の幻のラストエンペラー【皇帝という名の貧乏くじ】
  3. 毛沢東の遺体について調べてみた 「防腐処理され記念館で展示」
  4. 歴史を動かした絶世の美女たち!古代中国の美人15人
  5. 【古代中国の宇宙人遺跡?】 三星堆遺跡と「目が縦」だった謎の王様…
  6. 始皇帝と秦王朝の中国統一までについて調べてみた
  7. 古代中国の謎の遺跡から発見された「黄金の杖」とは 【三星堆遺跡】…
  8. 秀吉は薩摩人で明智光秀は二人いた? 明史-日本伝 【中国から見た…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

江戸時代の築地・豊洲市場。 あらゆる食材が集まった日本橋魚河岸

江戸の要の場所に位置した日本橋1590(天正18)年、北条氏を滅ぼし天下統一を果たした豊…

【光る君へ】藤原頼通に仕えた平致経と「影の集団」~父・平致頼ゆずりの武勇

藤原道長が権力の絶頂に昇ったのは、娘を次々と入内させ、皇室の外戚となったから……だけではなく、武力に…

最期まで呑気な藤原惟規(高杉真宙)僧侶も呆れた彼のコメント【光る君へ】

時は寛弘8年(1011年)、藤原惟規(のぶのり)は、越後守となった父・藤原為時に従い、越後国へやって…

日本三大奇襲の一つ『河越城の戦い』とは 【天才・北条氏康の夜襲】

「日本三大○○」という言葉はよく耳にするが、戦国時代が好きな人にとっての「三大○○」とは何だろう…

金森宗和 ~大坂の陣当日に父から勘当された武家茶人【宗和流茶道の祖】

金森宗和(重近)とは金森宗和(かなもりそうわ)は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕…

アーカイブ

PAGE TOP