真田幸村(信繁)とは
真田幸村(信繁)は、人気が高くとても有名な武将である。
前回に引き続き、今回は幸村の最後の戦いであり、徳川家康を自害寸前まで追い詰めた大坂の陣について解説する。
大坂冬の陣
慶長19年(1614年)11月19日、大坂冬の陣が開戦。幸村率いる真田軍5,000は真田丸で敵の攻撃を待っていた。
真田丸の前には伊達政宗・藤堂高虎・松平忠直の10,000、井伊直孝の4,000、寺沢広高・松倉重政・前田利常の12,000が布陣。その後ろには家康の本陣と秀忠の本陣が控えている。
しかし徳川勢は積極的には攻めてこなかった。そこで幸村は前田利常に注目した。前田家は豊臣恩顧の大名であり外様大名では最大勢力であったが、次々と外様大名が改易や取り潰しが行われていた中で、必ずしも徳川家を信用していないと判断した。
幸村は前田利常の陣にだけ、敵陣との間にある小山から毎日少数の鉄砲隊で射撃をさせた。
家康からの攻撃命令が中々出ず、毎日射撃されて死傷者が出たことから前田軍は苛立ち始めた。
家康は力攻めでは大坂城を落とせないと判断し、大坂城内にスパイを忍ばせ内部の切り崩しを図り、攻撃のタイミングを計っていた。
それと同時に戦場で常に争いの種になる「一番槍」を禁じていた。
そのうち前田軍の中からしびれを切らした兵らが真田軍に押し寄せた。しかし幸村は兵を退却させていたために敵が誰もいないと前田の兵は右往左往、それを見た真田軍が嘲笑し愚弄したので前田勢は敵だけでなく味方からも笑い者にされ、メンツを潰してしまう。
前田軍は翌日も射撃され、次は真田の鉄砲隊に夜襲をかけたが、また誰もいなかった。
さらに笑い者になってしまうと、前田軍はそのまま真田丸に攻撃をしようと堀に向かって進軍する。
これを見た徳川勢は前田軍が「一番槍」を抜け駆けしたと思い、井伊・藤堂・松平の軍勢も真田丸に殺到してしまった。
これこそまさに幸村の思うツボ。堀に入った敵兵に真田丸からの一斉射撃が行われ、一瞬のうちに数百名の犠牲者が出て徳川勢は退却を始める。
この時に真田丸の後方の大坂城壁で、味方の守備兵が誤って大爆発を起こしてしまった。この爆発で真田丸の矢倉も焼けている。
実は大坂城内には徳川に寝返る手はずになっていた南条元忠がおり、この爆発を寝返りの合図だと勘違いした徳川勢は大坂城になだれ込もうと狭い平野口(城壁)に殺到した。南条元忠はこの前日に徳川との内通がばれて切腹していたのだが、そのことを徳川勢は知らなかった。
狭い城壁に大軍で押し寄せた徳川勢に幸村は一斉射撃を浴びせ、見る見るうちに徳川勢の死傷者が増えていく。
事態を把握した徳川勢は撤退を始めるが、そこに後方から援軍がやって来てしまい撤退が出来ず、前にも後ろにも身動きが取れない徳川勢に幸村は弾丸の雨を降らせた。
幸村は指揮系統が崩壊した徳川勢を見て「一気に叩き潰すぞ」と、真田丸から長男・大助ら500人の陸戦隊を突撃させ、徳川勢に大損害を与えた。
寺沢広高・松倉重政らの軍に甚大な被害を与え、松平忠直の騎馬隊480騎と前田利常の騎馬隊300騎は壊滅状態となった。
この24時間で徳川勢は1万人以上の死傷者を出したとされ、この日からうかつに真田丸には接近出来なくなってしまう。
この戦いで「真田幸村」は昌幸の息子という扱いではなく、烏合の衆である浪人衆を束ねた優秀な武将としてその名が天下に知られることとなった。
寒さの中で野営をしていた徳川勢の兵士たちの士気は低下する。しかも兵糧を調達しようにも豊臣方に買い占められていたこともあり、家康は大坂城の力攻めを難しいと判断し和睦の使者を出した。
当初は総大将の秀頼や幸村ら大坂五人衆は和睦に反対したが、一晩中大砲の攻撃に悩まされ8人の侍女を亡くした淀殿が秀頼を説き伏せる。
また、真田丸以外は不利な戦いが続いていると考えた大野治長らの主張が通り、大坂城の外堀を埋めることを条件に和睦となった。
和睦交渉の際に、家康は家臣・真田信尹(幸村の叔父)を使者として真田丸に訪問させ「信濃10万石で寝返らないか」と勧めたが、それを幸村はあっさりと断った。
1万石で一度断われ、信濃一国10万石にしたという説もある。
幸村は「信濃一国どころか、日本国の半分でも私の気持ちは変わらない」と伝え、2度目の信尹との対面を断っている。
兄・信之は大坂の陣には病気を理由に参陣しなかった。その代わりにまだ若い2人の息子・真田信吉・真田信政(幸村の甥)が信之の名代として参陣していた。
そのためなのか、幸村は大坂の陣では六文銭の旗印を使わずに真紅の旗印を使ったという。
真田丸の戦いに参加した秀頼の重臣・木村重成は、敵兵の中に真田の六文銭の旗印を見つけ、幸村に「敵方の真田軍の先頭に2人の若武者がいる。もしかしてお身内の者ではないか」と声をかけた。
幸村は「2人共私の甥である、2人共討ち取ってください」と言ったという。
すると重成は「一族が引き分かれて戦っている。きっと和睦になって対面出来る日が来る」と幸村を慰めた。
そして家臣たちに「真田信吉と信政を鉄砲で狙撃しないように」と命じた。
家臣たちは2人を撃たず、幸村は大坂冬の陣の後に、2人の甥と対面することが出来たという。
上田に住む姉や親戚への手紙には、大坂冬の陣で大坂方についたことで上田の真田本家に迷惑をかけたことを詫びている。
大坂夏の陣 散っていった猛将たち
豊臣方が和睦に応じた理由としては、時間を稼げばその内に高齢の家康が亡くなり、その時こそ豊臣恩顧の大名が味方についてくれるだろうという期待があった。
だからこそ、日数のかかる堀の埋め立てを許したのだが、徳川勢は埋め立て作業を大人数でしかも徹夜で行い、短期間で外堀を埋めてしまった。
しかも、豊臣方が担当するはずだった部分まで手伝いと称して埋め立て、なんと最終的には外堀・内堀と全ての堀を埋め立ててしまい、大坂城は本丸だけの裸城になってしまった。
真田丸は一番初めに壊された。豊臣方は籠城戦に備えて兵糧・弾薬を城内に運び、再び浪人を集めて大坂城に入れた。
家康は秀頼に対し、大坂城を出て国替えに応じ、集めた浪人衆を追放して徳川への恭順を示せと要求した。
こんな要求を豊臣家が受けるはずもなく、慶長20年(1615年)4月28日、大坂夏の陣が開戦。
豊臣方の軍勢は7万8,000(5万という説もある)に減少。
豊臣方は15万5,000の徳川勢に対し、大坂城での籠城戦では勝つ見込みがないと判断し、総大将・家康の首を討つ狙いで野戦で勝負する戦術をとった。
5月6日、豊臣方は奈良と大坂を結ぶ道明寺付近に布陣し、畿内入りする徳川勢を各個撃破する作戦を立てる。(道明寺合戦)
しかし、内通者がいて進軍ルートが変更された上、その日は濃霧で豊臣勢は終結が遅れてしまった。
先に到着して孤立した猛将・後藤又兵衛の軍は、徳川勢に囲まれながら8時間も奮戦したが、伊達政宗の鉄砲隊に激しい銃弾を浴びせられ壮絶な最後を遂げた。
幸村が到着した頃には戦線は崩壊。又兵衛の死に幸村は「濃霧のためにみすみす又兵衛らを死なせてしまった、豊臣家の御運もこれまでか」と泣いたという。
すると大坂五人衆の毛利勝永から「ここで死んでも益はない、秀頼公の馬前で華々しく散りましょう」と励まされた。
幸村は撤退する大坂勢の殿(しんがり)を務める。追って来る伊達軍に対し地面に伏した長柄槍隊で波状攻撃をかけて食い止め「関東の武士は100万いても、男は一人もおらんのう!」と吠えて悠々と帰還したという。
大坂城に戻った幸村は、木村重成が若江・八尾合戦で討死したことを知ると「そうか、あの男も逝ったか」と勇猛果敢な若武者の死を悼んだ。
道明寺合戦で後藤又兵衛や薄田兼相、若江・八尾合戦で木村重成を失うなど多くの勇猛な武将が倒れ、戦に勝利する方法は家康の首を取ることのみとなった。
豊臣勢の疲弊は激しく、兵の士気を高めるために幸村は総大将・秀頼の出陣を求めたが、淀殿や秀頼の側近の反対で秀頼の出陣は無くなった。
天王寺・岡山の戦い
5月7日、豊臣勢は最後の決戦、天王寺・岡山合戦に臨む、天王寺口には幸村・毛利勝永など14,500、岡山口には大野治房ら4,600、別働隊として明石全登300、全軍の後詰として大野治長と七手組の部隊15,000が布陣した。
対する徳川勢の天王寺口先鋒には本多忠朝・秋田実季・浅野長重・松下重綱・真田信吉・六郷政乗・上村泰勝ら5,500、二番手に榊原康勝・小笠原秀政・仙石忠政・諏訪忠恒・保科正光ら5,400、三番手に酒井家次・松平康長・松平忠良・松平成重・松平信吉・内藤忠興・牧野忠成・水谷勝隆・稲垣重綱ら5,300、その後方に目指す家康の本陣15,000が控えていた。
正午頃に戦闘が開始。幸村は自軍を先鋒・次鋒・本陣など数段の真田決死隊に分け、天王寺口の松平忠直軍と一進一退の激戦を続ける。
幸村は「紀州の浅野長晟が裏切った」という嘘の情報を流し、越前・松平勢が動揺したのに乗じて突き進んだ。
目指すは家康の首ただ一つである。幸村は「名誉な死に場所を得た」と家康の本陣めがけて突撃を敢行する。
幸村は松平勢の戦力を分散させるために数名(7名)の影武者と共に進撃し、各影武者が松平勢を引き付けた。幸村は防御の手薄になった場所を鬼気迫る戦いぶりで突破し、とうとう家康の本陣にたどりついた。(影武者は真田十勇士であったという説がある)
家康の本陣前では旗本隊が人間の壁を作って真田決死隊の猛攻を受け止め、壮絶な乱戦となる。
幸村はもう一度戦列を整えて3度も家康本陣への突撃を繰り返し、遂に家康の馬印を引き倒した。
家康が馬印を倒されたのは武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来である。
「真田にこの首は取らせぬ」と踏み倒された馬印を見て家康は2度も腹を切ろうとしたが、側近たちに止められた。
しかし、さすがの真田決死隊も死傷者が増え、次第に追い詰められて四天王寺に近い安居神社に撤退する。
負傷した幸村は神社のそばで手当をしていたが、越前・松平隊の西尾仁左衛門に槍で刺されて討ち取られた。享年49(または48歳)であったとされている。
※他にも幸村は神社で休息している時に襲われたとする説、神社で自刃したという説、兵の手当をしていたところを襲われた説もある。
家康は「幸村を討ち取った」という報告を真に受けようとしなかったという。
※家康は幸村に傷つけられて亡くなったという説もあり、堺の南宗寺境内には「家康の墓」も現存している。
豊臣勢は家康を震え上がらせ、あと一歩のところまで追い詰めたが、毛利勝永は大坂城に撤退。明石全登は姿を消した。
翌5月8日、秀頼は毛利勝永の介錯で淀殿と共に自害。大坂城は炎上し秀頼の子・国松は斬首となり豊臣家は滅亡した。
秀頼の娘・天秀尼は千姫と常光院(お初)の嘆願で助命されて、鎌倉の東慶寺に入ることになった。
幸村の長男・大助は父と共に付き従うつもりであったが、大坂城の落城を見届けるように命じられてやむなく城に引き返した。
落城の際には若年のために脱出するように勧められたが、秀頼自害の後に殉死した。
英雄
大坂夏の陣での幸村の神がかり的な戦いぶりを知った島津家当主・島津家久は手紙にこう記した。(島津軍は大坂の陣には不参加)
真田は日本一の兵(ひのもといちのつわもの)。
真田の奇策は幾千百。
そもそも信州以来、徳川に敵する事数回、一度も不覚をとっていない。
真田を英雄と言わずに誰をそう呼ぶのか。
女も童もその名を聞きて、その美を知る。
彼はそこに現れここに隠れ、火を転じて戦った。
前にいると思えば後ろにいる。
真田は茶臼山に赤き旗を立て、鎧も赤一色にて、つつじの咲きたるが如し。
合戦場において討死。
古今これなき大手柄。
家康は幸村の首実検の際「幸村の武勇にあやかれ」と言うと、居並ぶ武将たちがこぞって幸村の遺髪を取り合ったという。
家康は「幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり、江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す」とした。
敗戦の将を「誉め讃えていい」としたことはまさに異例中の異例である。
大坂ではその後、幸村は生きていて(死んだのは影武者)秀頼・淀殿を助けて紀州に逃げ落ちたという噂が流れた。
さらに薩摩の島津家領内に逃げ隠れているという噂も立ったという。
兄・信之は幸村の人柄を「柔和で辛抱強く、物静かで言葉も少なく、怒り腹立つことはなかった」「幸村こそ本当の侍であり、彼に比べれば、我らは見かけを必死に繕い肩をいからした道具持ち。それ程の差がある」と評した。
連戦連勝の豪傑という幸村のイメージとは異なる人物像である。
普段はとても温厚だが戦場では無敵の男に変貌するところが人々の畏敬の念を呼び、全国各地から集まった5,000の浪人衆を一つに結束させた名将と賞賛された。
戦局不利と見ると身内でも裏切る戦国時代において、幸村の家臣は誰も降参しなかったという。
全国の諸将は幸村の高い人徳に感心し、講談「真田三代記」が発表されて真田一族が徳川を相手に奮闘する物語が庶民にも大人気となる。
その他の軍記物にも幸村は登場するが、徳川幕府はそれを禁じることなく敵将である幸村の活躍を描く作品を許している。
おわりに
生き延びたければ九度山にいれば良かったが、真田幸村は武士としての死に場所を求めて大坂城に入った。
敵味方の関係なく幸村が絶賛されるのは、戦国時代においても失われがちだった武士の誇りを体現した、数少ない本物の侍(サムライ)だったからであろう。
「武士が憧れた武士」それが真田幸村であり、日本を代表する誰もが知る英雄(ヒーロー)となった。
3部作とても面白かった
お父さんの真田昌い
3部作とても面白かった
お父さんの真田昌幸が凄いと思った
ありがとうございます☺
ここの家系、幸隆、信幸、矢沢家含め地方豪族としては優秀すぎですよね
個人的には信幸の方が強かった説のほうが好き
代々優秀というのがまた凄いところですね☺