日本史上もっともスケールが大きく、維新三傑のひとりにも数えられる英雄。
それが2018年の大河ドラマの主人公「西郷どん」こと西郷隆盛である。その英雄・西郷が生れた土壌、つまり、少年期はどのようなものだったのか。
隆盛、下級武士の家に生まれる
【※生誕地付近(鹿児島市加治屋町)】
西郷が生まれ育った下加治屋(しもかじや)町は、下士(下級武士)がひしめきあう狭い町だった。その西郷家の家格は御小姓与(おんこしょうぐみ)という、城下の士分としては下から数えて2番目に属した。
当時の城下に住む武士の家格は、上から御一門家(ごいちもんけ)、一所持(いっしょもち)、一所持格(いっしょまちかく)、寄合(よりあい)、寄合並(よりあいなみ)までが上士。その下に無格(むかく)、小番(こばん)、新番、御小姓与、与力がおり、彼らは下士と呼ばれ、上士とは明確に区別されている。
その下士の家に両親と小吉(隆盛の幼名)、その妹が3人、弟3人という大所帯だから、藩から買う俸禄米だけでは満足に食べられず、子供連中は朝から総出で畑仕事や薪拾いをし、芋や米を作っては夜に帰宅するといった苦労を重ねた。冬は一枚の布団を引っぱり合って寒さをしのぎ、5月の節句になれば、長男の隆盛が武者絵を紙に描いて祝ったという。
薩摩独自の郷中教育
今でいう小学生ぐらいの歳になると、薩摩独自の「郷中(ごじゅう)教育」を受けるようになった。これは、町に住む子供たちを年齢別に分け、勉学や武芸を教え込むという仕組みであるが、最年長が25歳というから、年少者でも十分に大人としての知識も得られたはずである。それを監督するリーダーは「二才頭(にせがしら)」といい、子供たちは二才の家で朝から様々な教えを受けた。その内容は、読み書き・馬追い・相撲・剣・槍・馬術など多彩であり、夕方にはその日に習った内容を皆の前で復唱し、反省する。
その際、重視されたのが「詮議」というものだ。「こんなとき、お前ならどうする?」という問題を出され、速やかに解決策を回答しなくてはいけないという決まりだった。薩摩武士の子らは、こうして一日の多くを同年代や年長者と共に過ごし、「嘘を言わないことは士道の本意である」「必要なときは後れをとるな」「弱い者いじめをするな」といった躾も叩きこまれる。学問や武芸で教えを受けたなかには大久保利通の父である大久保利世らもいた。
少年期の隆盛
【示現流を薩摩藩の流儀にした島津斉興】
武士である以上、隆盛らは剣術にも打ちこんだ。
薩摩で盛んだったのは「示現流(じげんりゅう)」だったが、これは初太刀に勝負の全てをかけて打ちこみ、防御は二の次という一撃必殺の流派である。しかし、やや意外ではあるが、隆盛は運動神経があまり良くなかったためか剣の上達が遅く、勉強の方も格別できるというほどでもなかったという。
ただ、生まれつき体が大きいので相撲だけは得意であり、特に眼の大きさから「ウドサァ」と呼ばれていた。ウドサァとは当時の薩摩言葉で太った人や大きい人といった意味だったらしい。
それにしても、隆盛はとにかく目立つ存在だった。近所の悪童らが「ちょっと脅してやろうぜ」と、道の曲がり角で「ワッ!」と大声を上げて隆盛の前に出た。そのとき、隆盛は豆腐カゴを抱えていたので、それを道のわきに置いてから「ああ、たまがったぁ」と驚いたような声を上げてみせたという。
子供のころから肝のすわった男であった。
奇襲事件
その黒い「ギョロ眼」は人を圧倒し、近所の年長のものも恐れをなすようになる。一方で彼の周りには同世代や年下の子供たちが慕って集まるようになっていたが、反面、妬みを感じるものも少なくなかった。そして、隆盛が12~13歳の頃、ある事件が起こる。
「妙円寺(みょうえんじ)詣り」という関ヶ原の戦いにおける島津義弘の敵中突破の勇士を称える祭りの帰り、隆盛は横堀三助という上士の若者に因縁をつけられた。郷中で人気を集めていた隆盛を気に入らなかったのだろう。取っ組み合いになるが、体格がよくて相撲に長じていた西郷は、難なく三助を投げ飛ばしてた。その数日後、三助は隆盛に鞘に入ったままの刀で奇襲する。
武士としては卑怯な行動だが、隆盛は咄嗟に右手でそれを防いだ。しかし、その刀は勢い余って鞘が割れ、刀身が隆盛の肩から右ひじに入ってしまった。
この大怪我によって、隆盛は右腕を伸ばせなくなり、剣術を諦めざるを得なくなってしまう。
学問の道へ
薩摩の郷中教育の根本の方針は「武道が第一である」というものであったから、隆盛がいかに落胆したかは想像に難くない。しかし、隆盛はその逆境を力に変え、学問で身を建てることを決意する。
そして、一念発起して読み書きに打ちこんだ。その頃には下加治屋町を中心とした城下の若者たちとも交流が深まり、特に同じ下級武士である「大久保正助(後の利通)」とは親友同士となった。大人になっても「吉さぁ(隆盛)」、「一どん(利通)」と呼び合うほどの仲になったのである。
こうした郷中教育での生活は、学校の成績や試験の点数で評価される現代社会とはまるで違う。グループのなかでの「人間力」、それこそが評価の対象であった。隆盛は剣は使えなくなったが、徐々にリーダーとして成長を遂げ、周囲に認められる存在となっていったのである。
最後に
西郷が後の世で違業を成し遂げた根本は、薩摩独自の教育法にあった。これが幼いころから隆盛を優秀な人材に育て上げ、広い視野で物事を見る人間にしたのである。
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