巌流島の決闘とは
巌流島の決闘とは、慶長17年(1612年)4月13日、現在の山口県の通称「巌流島」で、宮本武蔵と佐々木小次郎が戦った決闘である。
現在も語り継がれ、TVドラマや映画などでもお馴染みの日本一有名な決闘として知れ渡っている。
しかし、この日本一有名な決闘の通説には、実は真相(真実)と違う点が幾つかあるのだ。
今回は、宮本武蔵vs佐々木小次郎!巌流島の決闘の真相について前編と後編にわたって解説する。
巌流島とは
本州と九州を隔てる関門海峡、ここに浮かぶ周囲わずか1,2kmの小さな無人島が巌流島である。
映画やTVドラマなどでは、まるで沖合の島のように描かれているが、実は本州の下関市彦島からわずか400mほどの本土からすぐ近くに浮かぶ島で、正式名称は「船島(ふなしま)」という。
映画やTVドラマの演出では、武蔵が小舟で移動しながら櫂を削って木刀にしていたシーンが描かれており、時間がかかる沖合の島というイメージがあるが、実は岸から近い島であった。
現在の船島は風光明媚な島として東海岸に遊歩道が整備されてるが、江戸時代初期の船島はヤブが生い茂るだけの何も無い島で、この島の存在を世に知らしめたのは作家・吉川英治の書いた小説「宮本武蔵」である。
小説「宮本武蔵」の概要
作家・吉川英治の書いた小説「宮本武蔵」は、朝日新聞で1935年の8月23日から1939年7月11日まで連載された作品である。
二天一流の開祖である剣豪・宮本武蔵の成長を描いたこの作品はすぐにベストセラーとなり、多くの映画やTVドラマの原作となった。
しかし、小説の多くの部分、特に冒頭部分はほとんどが吉川英治の創作であり、この小説による誤った宮本武蔵像が、その後あたかも真実であるかのように広まってしまったのである。
巌流島の決闘の通説
この小説の中で描かれている主役は、日本一の剣豪を目指す宮本武蔵(当時29歳)である。彼は武者修行の旅を続けていた。
対するのは備前国の小倉藩の剣術指南役・佐々木小次郎であり、この時わずか18歳であったとされている。
宮本武蔵が小倉藩の若き天才剣士・佐々木小次郎に勝負を挑み、それを小倉藩主・細川忠興が認めたことで2人の決闘は藩公認の戦いとなった。
その戦いの舞台に選ばれたのが、備前国の沖合に浮かぶ船島(巌流島)であった。
決闘の日時は慶長17年(1612年)4月13日の午前8時頃だった。
ところが当日小次郎は小倉藩の立会人たちと共に船島に渡ったが、定刻を過ぎても武蔵が現れなかった。
なんとこの時、武蔵は逗留先で高いびきで寝ていたという。
船島を目指して小舟に乗り込んだのは日が照ってきた頃で、武蔵は小舟を漕ぐ櫂を削って小次郎と戦うための木刀を作り、約束の時間から2時間ほど遅刻して船島に着いた。
当然、待たされた小次郎は怒りをあらわに「臆したか?策か?いずれにしても卑怯と見たぞ!いざ来い武蔵」と言って、物干し竿と言われた長刀を抜き、その鞘を浜辺に投げ捨ていた。
これを見た武蔵は「小次郎敗れたり!」と叫んだ。小次郎が「何をもって」と返すと、武蔵は「勝つ身であれば何故鞘を投げ捨てた。自ら命を投げ捨てたのだ!」と言ったのである。
小次郎は武蔵に斬りかかるが、武蔵はその切っ先を紙一重でかわし、櫂で作った木刀で小次郎の頭を打ち降ろした。
倒れて動かない小次郎、武蔵は自分の落ちたハチマキを見て「生涯のうち、二度とこういう敵に会えるかどうか」とつぶやき、待たせていた小舟に乗って船島を後にした。
まさに緊迫感溢れる世紀の名勝負である。
ところが巌流島の決闘の物語には5つの疑問点があるのだ。
5つの疑問
①決闘の年が違う?
②武蔵は佐々木小次郎と戦っていない?
③武蔵は遅刻しなかった?
➃武蔵は櫂を削った木刀で戦っていない?
⑤小次郎は決闘で死んでいた?
そもそも吉川英治は、江戸時代の武蔵の伝記「二天記」をベースに小説「宮本武蔵」を書いたが、この「二天記」は巌流島の決闘が終わって150年以上も過ぎてから、武蔵の流派を受け継ぐ熊本藩の兵法指南役が書いたもので、武蔵贔屓の脚色が多く、その信憑性は低いものだった。
そのため、広く知られる巌流島の決闘は虚実が複雑に交じり合ったものであり、何が真実で何が嘘なのかはっきりしないのである。
決闘の年が違う?
実は、巌流島の決闘の日時を記した一級史料は現存していない。
通説とされている慶長17年(1612年)は「二天記」によるもので、そこに記された武蔵の生年は天正12年(1584年)、「二天記」による決闘時の武蔵の年齢は数えで29歳とされている。
だが、これはあてにならないという歴史研究者も多くいる。実は武蔵の生年は天正10年説と天正12年説の2つがあり、もし武蔵が天正10年生まれならば巌流島の決闘の時期も2年繰り上がって慶長15年(1610年)になるという。
だが、武蔵の伝記「武州伝来記」では、19歳で戦ったとされているのである。
このように武蔵自身の年齢には諸説があり、文献によって武蔵の年齢に違いもあることから、巌流島の決闘時期を特定するのは難しいという訳である。
つまり、巌流島の決闘が行われた年は不明であり、それを特定することは難しいのが現状である。
武蔵は佐々木小次郎と戦っていない?
佐々木小次郎と言えば、物干し竿と呼ばれた3尺(約180cm)の長刀を使い、秘剣「燕返し」の使い手であり、しかも若きイケメン剣士いうのが、広く知られたイメージである。
しかし武蔵の養子・宮本伊織が武蔵の菩提を弔うために建てた「小倉碑文」には、佐々木小次郎という名前は一切記されていない。
ただ、「兵法の達人・岩流」という記述が残されているだけである。
そのため佐々木小次郎は、年齢も経歴も実はまったく分かってはいないのだ。
分かっているのは3尺(約180cm)の長刀の使い手であったというだけであり、若きイケメン剣士という記述はどこにも無いのである。
そもそも岩流(巌流)とは、武蔵と戦った剣豪の名前なのか?それとも流派の名称なのか?
その答えは小倉藩・細川家の重臣が17世紀後半に書いた武蔵の伝記「沼田家記」にあった。
そこには「小次郎と申す者、岩流の兵法を使い」とある。つまり「岩流」とは流派名で、その使い手の名前が「小次郎」であることが分かったのである。
ただし、この「沼田家記」には佐々木という姓は記されてはいない。
伝承によると、佐々木小次郎は豊前国(現在の福岡県田川郡)の有力豪族・佐々木氏のもとに生まれたという説と、越前国(現在の福井県福井市)出身という説がある。
師匠に関しては、越前国で有名な中条流(冨田流)の盲目の剣豪・冨田勢源の弟子という説と、冨田勢源の弟子・鐘巻自斎の弟子という説がある。
もし、佐々木小次郎が冨田勢源の弟子ならば巌流島決闘の時には60~70歳位で、鐘巻自斎の弟子であるならば40歳位となる。
いずれにせよ18歳の若きイケメン剣士という通説とは大きく異なるのだ。
実は「佐々木」という姓が登場するのは、巌流島の決闘から100年以上もたった元文2年(1737年)に上演された歌舞伎「敵討巌流島」からである。
この中では武蔵と戦う男の名は「佐々木巌流」とされている。つまり佐々木小次郎という名前は「岩流の使い手・小次郎」に歌舞伎の役名の苗字を組み合わせた、後世の創作であるとされている。
それを考えると、武蔵が巌流島の決闘で戦った相手は「佐々木小次郎」ではなかったということになる。
では謎の剣士・小次郎は、どうして名門大名・細川忠興の剣術指南役になったのだろうか?
佐々木小次郎の正体が謎であるならば、巌流島の決闘が小倉藩公認ということも怪しくなってくる。
もし本当に小次郎が細川家の剣術指南役であれば、小倉藩(細川家)の公式記録にその名を残っているはずである。
室町幕府第13代将軍・足利義輝に仕え、激動の戦国時代を乗り越えた細川藤孝(忠興の父)を祖とする細川家は名門中の名門で、多くの文書をなんと現代に至るまで残している。
しかし細川家には小次郎に関する記述は一つも残ってはいない。
つまり史料的には巌流島の決闘は小倉藩公認の試合ではなく、小次郎は細川家の兵法剣術指南役ではなかったと言えるのである。
さらに船島は小倉藩の領国ではなく、長府藩の領国であった。
当時、他藩の領国の島での決闘などできなかったはずである。
そう考えると巌流島の決闘は小倉藩公認の試合ではなく、武蔵と小次郎の私的な決闘であった可能性が高くなる。
小倉藩に若き天才剣士がいるという評判を武蔵が聞き付け、小次郎に勝負を挑んだという話も創作ということになるのである。
では、なぜ武蔵は小次郎と戦うことになったのだろうか?
これにはいくつか説があるが「沼田家記」にはこう書かれている。
「双方の弟子たちが自分たちの兵法が優れていると言い争いになったため、武蔵と小次郎は優劣をはっきりさせるために戦った」
つまり、武蔵は弟子たちの言い争いに巻き込まれる形で、相手の流派の使い手である小次郎と戦うことになったというわけである。
だがもう一つの説がある。
武蔵の伝記「武州伝来記」には
「小次郎が武蔵の父・新免無二斎に戦いを挑んだが、無二斎がこれを辞退すると、『無二斎が小次郎を恐れた』という噂が広まり、それが許せなかった無二斎の息子・武蔵が自分が戦うと申し出た」
とある。
歴史研究家たちは、どちらの説もあり得る話だとしている。
新免無二斎は、足利将軍から「天下無双」の称号を受けた剣豪である。剣の道を志す者としては挑戦を受けたいのは山々だが、毎日そんな奴らの相手をしていたら身が持たないし、面倒臭いし鬱陶しい。
こうして果し合いを避けると、相手は「俺に恐れをなした」とふれ回り、自分の名前を売るのである。
あの柳生石舟斎も晩年「天下一」の称号を受けたが、その後、柳生の里に毎日何人もの挑戦者が現れ、嫌気が差して弟子たちに試合をさせたという。
無二斎もそれと同じ理由だと考えられる。
「武州伝来記」では「佐々木小次郎」ではなく、長門国長府に住む国人「小田小次郎」という岩流の兵法者が、前述した内容で登場している。
武蔵は摂津国(大坂)で弟子を取って兵法を教えていたが、この話を聞いてただちに長門に下り、小田小次郎と下関で勝負しようとしたが許されず、やむなく巌流島(船島)の決闘に至ったと書かれている。
巌流島の決闘は、この時点でも我々が知る通説とは大きく違うのである。
後編ではさらに違う点を解説する。
佐々木小次郎が富田勢厳や鐘巻自斎の弟子とは分かっていたが、やはりそうならば若い武蔵が70歳の小次郎に勝負を挑むだろうか?
柳生の里で天下無双の柳生柳生石舟斎が爺さんだと知って立ち会わなかった武蔵、宝蔵院の爺さんとも立ち会わなかった武蔵が70を超えた佐々木小次郎と戦うか?続きを読みます。