太田南畝とは
大田南畝(おおたなんぽ)とは、江戸時代の中期に爆発的な社会現象となった「天明狂歌(てんめいきょうか)」ブームの火付け役と呼ばれた男である。
狂歌とは、簡単に言えば日常を題材に洒落や風刺を利かせて「五・七・五・七・七」で詠む和歌のパロディである。
その当時、江戸には名の通った狂歌師だけでも300人以上が活躍したが、そのブームは江戸に留まらずに日本各地で大流行を巻き起こした。
その狂歌のヒーロー的存在が太田南畝であるが、狂歌で生計を立てたわけではなく、なんと下級武士だったのである。
今回は、江戸時代の天明狂歌の爆発的ブームの火付け役となった男・大田南畝について解説する。
狂歌とは
狂歌(きょうか)とは、前述したとおり社会風刺・皮肉・滑稽を盛り込み、「五・七・五・七・七」の音で構成したパロディ形式の短歌(和歌)のことである。
狂歌には、「古今和歌集」などの名作をパロディ化した作品が多く見られ、その起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。
落書(らくしゅ)などもその系譜に含めて考えることができ、独自の分野として発展したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した永田貞柳などが知られる。
特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌が一つの社会現象と呼べるほどブームとなった。
そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝が著した狂詩集「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」である。
江戸で初めての狂歌会が催されてから、狂歌の愛好者たちは「狂歌連」という集まりを作り創作に励んだ。
武士・町人・男性・女性と、身分や男女の区別なく参加したという。
狂歌は江戸から日本各地に広がり、大流行を巻き起こしたのである。
狂歌ブームの火付け役
本能寺の変を起こした明智光秀の盟友だった戦国大名の細川藤孝(細川幽斎)は、「古今和歌集」の当時唯一の伝承者だった。
関ヶ原の戦いでは西軍に付き、大軍勢を足止めしたのにも関わらず、命を助けられたのも古今伝授の唯一の伝承者だったからである。
その第一人者であった細川幽斎が、速吟の頓知(とんち)の狂歌をよく詠んだことが世間の人々の関心を集め、門人の宮廷人や高僧など京都の上層階級の間に狂歌の流行が起こった。
こうして、京都を中心とする初期の狂歌を大坂の大衆に導入し、浪花狂歌の大流行を起こしたのが永田貞柳(ながたていりゅう)である。
江戸では浪花狂歌は受け入れられなかったが、ある人物が好きで書き留めていた狂歌が刊行され大評判になる。
その人物が当時19歳だった大田南畝(おおたなんぽ)であった。
大田南畝は、寛延2年(1749年)下級武士の徒士(かち)であった大田正智の嫡男として江戸の牛込中御徒町で生まれた。
「南畝」は号で、別号は「蜀山人」だが、ここでは一般的に知られる「南畝」と記させていただく。
南畝は貧しい家庭で育ったが、幼少の頃から学問や文筆に秀でていた。
15歳で江戸六歌仙の1人であった内山椿軒に入門し、札差(ふださし : 米の仲介を業とした者)から借金をしながら国学や漢字の他、漢詩や狂詩などを学んだ。
17歳で父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが好きな学問は続け、18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者・松崎観海に師事し、作業用語辞典「明詩擢材」五巻を刊行した。
19歳の明和4年(1767年)に、それまで南畝が好きで書き留めていた狂歌が同門の平秩東作に見出され、狂詩集「寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)」を刊行、これが江戸で大評判となったのである。
南畝はこの後、数点の黄表紙(大人向け読み物)を発表したが、当たり作(売れる本)はなかった。
しかし、内山椿軒の私塾の歌会には参加していた。
明和6年(1769年)頃から、自身の狂歌名を「四方赤良(よものあから)」と号し、南畝自身もそれまで捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動を始めた。
それまで主に上方が中心であった狂歌が、江戸狂歌として大流行となったのは、大きなきっかけがあった。
当時売り出し中だった版元の蔦屋重三郎が、天明3年(1783年)に四方赤良の「万載狂歌集」、唐衣橘洲の「狂歌若菜集」、天明6年に歌麿の「絵本江戸爵」を刊行し、大人気となったことから始まり、後に「天明狂歌ブーム」と呼ばれるほどの大流行・社会現象となったのである。
南畝は朱楽菅江・唐衣橘洲と共に「狂歌三大家」と呼ばれるようになっていた。
この当時は田沼時代と呼ばれ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いた時代であり、南畝の作品は時流に乗って当時の知識人たちに受け、交流を深めるきっかけにもなっていった。
その後、南畝は蔦屋重三郎を版元として「嘘言八百万八伝」を出版する。浮世絵師の山東京伝は、この頃に南畝が出会って見出した才能(人物)とも言われている。
こうして狂歌の有名人となった南畝だったが文人として生計を立てた訳ではなく、あくまで生計は昼間の最下層の下級武士という二足のわらじであった。
しかし南畝は田沼政権下の勘定組頭・土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原に通い出すようになった。
なんと遊女を見請けして妾とし、自宅の離れに住まわせるなど好きな狂歌を謳歌しながら楽しく暮らしていたのである。
寛政の改革
しかし老中・田沼意次の息子・意知が江戸城内の刃傷事件で亡くなると、権勢を誇った田沼意次が失脚してしまった。
その後、代わった老中・松平定信の「寛政の改革」によって、田沼寄りの幕臣たちが粛清され、南畝を援助していた土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまった。
綱紀粛正・質素倹約を目指す「寛政の改革」では、風紀を乱すとして版元・蔦屋重三郎らも処分され、南畝は経済的支柱を失うこととなる。
粛清された土山と親しかったことで南畝も公儀から目を付けられたが、たまたま処罰は免れた。
しかし風評は悪くなり、南畝は好きな狂歌の筆を置いてしまうことになった。
だが、この頃幕臣としての出世が家柄だけでなく、一部学問の出来で決まることになった。
下級武士であったが頭が良かった南畝は幕臣として出世していくことになり、禄も増え、その間に好きなことを書いた著書も複数出版している。
文政6年(1823年)南畝は登城の際に道で転倒し、そのケガがもとで75歳の生涯を閉じた。
辞世の歌は
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
だったと伝えられている。
おわりに
太田南畝は、普段の暮らしに困窮するほどの貧乏な下級武士であったが、たまたま大好だった狂歌を副業とし「好きなことをし、楽しく暮らし、そして働く」という人生を謳歌した生涯を送った人物だ。
人生の一番良い時期に大好きな狂歌の第一人者となり、空前の狂歌ブームの火付け役となったことは時代に恵まれた男であったとも言える。
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