3「吾妻鏡」の記述
ところで、この弁慶という人物の実在を裏付ける資料として、「吾妻鏡」(あづまかがみ)の記述が挙げられる。
「吾妻鏡」文治元年十一月三日と六日の記述である。なお六日の記述には「静」の名も見られる。
「吾妻鏡」は、鎌倉時代の歴史書であり、鎌倉幕府が公的にかかわった編纂物であると推定されている。
「物語」ではなく「歴史書」であり、公的な記録として見ることができるものであるため、ここに弁慶の名が記されている限り、やはり「武蔵坊弁慶という人物の実在の可能性はかなり高い」といえるのだ。
だが、これにも問題は残る。ここに名を記された武蔵坊弁慶と、我々がイメージする武蔵坊弁慶像がどれだけ重なるのかについては、まったく保証がない。
また、そもそも「吾妻鏡」が「平家物語」の記述を参考にした、という説もあり、こうなってしまうともはや弁慶の実在は証明のしようがなくなってしまう。この点については忘れてはならない。
4 弁慶の生い立ち
弁慶の生まれについて、「義経記」は、弁慶の父親は紀伊の「熊野の別当・弁せう」であり、母親は「二位大納言の姫君」であったとする。この弁せうが、姫君を強引に奪い取った結果、生まれたのが弁慶であり、母の胎内にいること十八ヶ月。生まれたときには二、三歳の子どものようであり、すでに奥歯も前歯も大きく生えていた、と記されている。
弁慶生誕の地が紀伊であるとするならば、現地に何らかの痕跡があるのではないか。
「紀伊続風土記」は和歌山藩が編纂した紀伊国の地誌。1839年(天保10)完成。藩領諸村の地誌を詳細に記述した資料である。
実はこの「紀伊続風土記」巻七十一にはこんな記録が残されている。
「田辺荘」の「田辺城下」についての記載の中に「弁慶松・弁慶池」という項目が立てられている。
ここには
「弁慶松・弁慶池は、弁慶がこの地で生まれたことから付いた名前であること、関東から熊野に詣でる者は弁慶の旧跡として必ずこれを見ること、またその夜は田辺城下に宿り、餅をつくのが例となっていて、これを弁慶の力餅と呼んだこと」
が書かれている。
また、
「弁慶の生誕の地については諸説あり、どれが確実とは決めがたいが、田辺の地では古くからの地元の言い伝えとして、ところどころ符合するところも多いので、弁慶は田辺の地で生まれて本宮で七歳頃まで育った後、京に上り、比叡山に登ったのだろう」
としている。
5 出雲の伝承
一方、弁慶生誕については出雲にも伝承がある。
島根県松江市に伝わる「弁慶森・弁慶島」の伝承では、松江市長海町に「弁慶森」という小山があり弁慶はそこで生まれたとされている。
そこには明治の初め頃まで弁慶の母である弁吉を祀る「弁吉神社」があり、そこに弁慶の自筆とされる願文があり、そこに弁慶の生い立ちが書かれていた。(同文書は現在、長見神社が保管している。)
その願文によると、
・弁慶の母弁吉は、田辺の郷士の娘であったが、器量が悪く、二十歳になっても夫がおらず、父母の勧めで、縁結びの願かけのために出雲へ行く。
・出雲で弁吉は縁結びの神に願をかけた後、長海村で三年を過ごす。
・ある日、二十歳ほどの山伏が「汝の夫として来た」と言ってやって来て、一枝の桃の枝を渡して、「ももよの契り」と言いながら空へ舞い上がり去っていく。
・弁吉は月水が止まり、つわりになるが、どうしても鉄が欲しくなり鍬などをかじる。
・みごもってから十三ヶ月後に弁慶が誕生。すでに髪が長く歯が二重にはえていた。
・幼少の弁慶はいたずらが過ぎて「弁慶島(野原町の沖)」に捨てられるが、そこに山伏がやって来て、一緒に遊んでくれた。
・この山伏は実は弁慶の父でありその正体は天狗。山伏は弁慶に、自力で岸へ渡るように言う。
・十歳になった弁慶は、袖や裾に砂を入れて海中に落として島と岸をつなぐ道を作って長海に帰還。その後は学問に励む。
・十五歳の時に鍛冶に刀を作らせる。三年三ヶ月かかってできた刀は、金床をまっぷたつに切るほどの素晴らしい刀であった。
・「これほどの腕の鍛冶を生かしておけば、また別の刀を作られかねず危険だ」と判断し、弁慶は鍛冶を殺す。
・その後、弁慶は出雲を出て、母の生国である紀州へと急いだ。
以上の出雲の弁慶伝説の内容は「日本伝説体系第11巻 山陰編」(みずうみ書房)に依った。これもまた弁慶の実在を裏付けるものとはいえないが、興味深い逸話である。
6 まとめ
探れば探るほど、弁慶の実在の証明はかえって難しくなる。
調査しながら、むしろ弁慶伝説の成長や広がりを追うことの方が楽しくなってしまった。
なお、現在、京都の五条大橋には、「修練・奉仕・友情」いう道徳的な文言の刻まれた台の上に乗った弁慶と義経の像がある。
こちらは公益社団法人京都青年会議所(JC)の寄贈によるものであり、「修練・奉仕・友情」はJCの掲げる三つの信条による。
もはや「平家物語」や「義経記」からはだいぶ遠くまで来てしまった感は否めないが、これもまた、いまだに弁慶が日本人に愛され続けているひとつの証左といえよう。
気がつけば、京都の五条大橋のみならず、我々の周囲に注意を払うと、至るところに「弁慶」の名を冠した商品やサービスや店舗などを目にする。
弁慶伝説はまだまだ成長を続けているのである。
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