坂東武士の代表格 畠山重忠
平安時代はまだ武士の身分はそれほど高くなかった。だが、それも平安時代末期になり合戦が多くなると武士の力が段々強くなっていた。
特に坂東付近(現在の関東地方近辺)で活動をしていた武士たちを「坂東武士」と呼び、命よりも名を惜しみ武骨で頼もしいことが特徴だった。
その坂東武士のなかでも「坂東武士の鑑」と呼ばれていた武士がいた。その名前は畠山重忠(はたけやましげただ)である。
今回は武勇の誉れ高く、清廉潔白な人物である重忠の生涯について書いていきたいと思う。
坂東武士の鑑と呼ばれた人物の生涯を覗き見るのは非常に楽しみである。
平家方の武士として
重忠は長寛2年(1164)に武蔵国(現在の埼玉県)で生まれた。父は畠山重能(はたけやましげよし)で母は三浦義明の娘である。畠山氏は源氏の武士として活躍していたが、源頼朝の父である源義朝が平治の乱で討たれると平家についた。
治承4年(1180)に頼朝が挙兵するとそれに伴い、京にいた重能の代わりに留守を預かり、17歳の若さで軍を率いて頼朝討伐に向かった。しかし、頼朝は石橋山の合戦で敗走していたため、頼朝には会うことはなかった。そして、先の合戦で敗走してきた三浦義明と由比ガ浜で対峙した後、義明のいる衣笠城を攻め、ついに討ち取った(衣笠城合戦)。
重忠にとって義明は叔父であり、出来ることなら戦いたくなかったが、平家についていたので仕方なく戦ったとされている。
その後落ち延びた頼朝が安房国(現在の千葉南部)で再起し、武蔵国に着くと重忠は同族の河越氏、江戸氏と共に頼朝に帰順し以後は頼朝に仕えることになる。頼朝のもとには三浦氏もおり、三浦氏にとって重忠は義明の仇であるが、頼朝の計らいによってこれといったいざこざは起きていない。
そして、父の重能は重忠が頼朝に帰順しても平家についた。重能が平家にいた理由は平家とのつながりが深く、源氏とはあまり関わりを持っていなかったからである。逆に重忠は義明の娘を正室にしているので源氏と関わりが深かったから帰順したと考えることができる。
源氏方の武士として
源氏についた重忠は寿永3年(1184)の宇治川の戦いに参加し、平安時代きっての女武士、巴御前と一騎打ちをした。重忠は怪力で圧倒し、敵わないと見た巴御前は逃げ出している。
そして、同年3月に勃発した一ノ谷の合戦では源義経の軍に属し、共に鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)も行っている。
その時、重忠は馬を失ってはいけないと思い、自慢の怪力を駆使し馬を背負って駆け降りていった。宇治川の戦いで馬を失ってしまったので、そのことから先ほどの行動に出たと思われる。
その後は特に合戦に出ることなく元暦2年(1185)の平家滅亡を迎える。
謀反の疑惑をかけられる
頼朝の鎌倉幕府開府後は、伊勢国の地頭に命じられる。しかし、重忠の代官が狼藉を働いたことにより、責任を取る形で重忠は拘束されてしまう。これを屈辱と感じた重忠は絶食して命を絶とうとしたが、武勇を惜しんだ頼朝によって解放される。
その後、重忠は武蔵国へ帰ると、それを梶原景時(かじわらかげとき)は重忠に謀反の疑いがあると頼朝に報告してしまった。そのことにより頼朝は重忠討伐を考えるが小山朝政(おやまともまさ)、下河辺行平(しもこうべゆきひら)によって止められ、重忠を鎌倉へ呼び出した。
重忠は鎌倉で取り調べを受け、景時に起請文を書くように促されるが、重忠はそれを書く必要はないと堂々と拒否した。そのあらましを黙って見ていた頼朝は褒美を与えて重忠を帰国させた。
その後は頼朝が亡くなり、続いて景時も謀殺され(梶原景時の乱)、鎌倉幕府の実権は執権の北条時政が握ることとなる。
畠山重忠の乱
元久元年(1204)、重忠の子である重保(しげやす)は酒宴で時政の後妻、牧の方の娘婿である平賀朝雅(ひらがともまさ)と口論してしまう。周囲の取りなしによってその場は収まったが、牧の方と朝雅の熱は冷めることなく、ついには偽りの謀反の疑いをかけ時政を介して重保討伐軍を編成させた。そして、重保は翌年に三浦義村に討たれた。
騒ぎを聞きつけた重忠はすぐさま鎌倉へ向かうが、その途中で重忠追討軍と遭遇した。追討軍は数千騎に対して重忠は150騎にも満たない兵数にも関わらず、潔く戦うことが武士の本懐として追討軍を迎え撃つこととした。
戦うこと4時間、重忠は愛甲季隆(あいこうすえたか)に矢で射られ、42歳の生涯に幕を閉じた。
やがて、重忠の死をきっかけに時政は失脚することとなるのだった。
最後に
最後まで武士としての誇りを守り通して戦った重忠。この主君に忠実かつ潔い生き方は誰が見ても謀反を起こすことがないと思えてしまう。
そして、武勇にも優れていて数々の合戦で活躍し、かつて仕えていた平家の滅亡に貢献した。これは畠山氏が元々は源氏に仕えていたこともあったので、本来いるべき場所で活躍しなければならないプレッシャーも少しは感じていたと考えられる。
最後は坂東武士らしく命を惜しまず、身の潔白を証明するため死地へ飛び込む勇姿は「坂東武士の鑑」と呼ばれても誰も否定することはできないだろう。
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