平教経(たいらののりつね)とは
源平合戦で源氏最強の武将は言わずと知れた源義経だが、平氏最強の武将と言えば平教経(たいらののりつね)だ。
荒くれ者の源氏に対して平氏一門は貴族のような優雅さを連想させるが、一門の中で平教経は「度々の合戦で一度の不覚を取ったことがない」「王城一の強弓精兵」と称される異彩を放つ猛将である。
屋島・壇ノ浦の合戦で源義経を追い詰めたとされる、平教経の強さについて解説する。(※教経の経緯は諸説あるがここでは平家物語ベースで語る)
都落ち
平教経は永暦元年(1160年)平清盛の異母弟・平教盛(たいらののりもり)の次男として生まれる。
教経は平清盛の甥にあたり幼い時から武芸に秀でていたとされる。教経の幼少の時の記述はほとんどなく詳細については不明である。
平氏一門が京で絶大な権勢を誇っていた治承3年(1179年)能登守に任命されている。
教経が歴史に登場するのは寿永2年(1183年)5月11日、源義仲との倶利伽羅峠の戦いと、同年6月1日の篠原の戦いで平氏軍が連敗した後である。
義仲軍から京の守りを固めようとした宇治橋で、教経は2000余騎を率いて警護にあたる。
しかし、同年7月に義仲軍に平氏軍は敗れ、教経は平氏一門と共に都落ちする。
数々の武功
同年10月、水島の戦いで教経は平氏軍の副将となり「者ども北国の奴らに生け捕りにされては無念だろう!」と兵を鼓舞する。
そして、船をつなぎ合わせて板を渡し平坦にして、馬と共に押し渡る戦法を指示し、なんと自らが先頭に立って敵に襲いかかった。
この猛襲によって敵は総崩れとなり教経は敵の侍大将・海野幸広を討ち取る武功を挙げ、平氏軍は勝利する。
水鳥の戦いの敗戦によって力を弱めた源義仲軍は、平氏追討が頓挫することとなり、後に源範頼・義経軍によって滅ぼされる。
源氏同士の争いの中で、平氏軍は摂津国福原まで勢力を回復する。西国では平氏に背く源氏勢力との度重なる戦い(六ヶ度合戦)でも、教経は平氏軍の中で一番の武功を挙げる。
教経の身長は六尺(約180cm)を超える大男で、特に弓矢を得意としていた。大人二人がかりでも引けない程の強い弓矢を用いて戦ったとされる。
一ノ谷の戦い
寿永3年(1184年)2月、一ノ谷合戦では、教経は最も激戦が予想される要所を任せられる。
教経らは奮戦するも、義経軍の鵯越えの逆落としに平氏軍は総崩れとなり敗走する。
屋島の戦い
元暦2年(1185年)2月、屋島の戦いでは、教経は形勢が不利の中「船戦にはやりようがある」と言って鎧直垂を着ずに弓矢で何人も討ち取った。
当時の合戦は刀を合わす前に名乗りを上げて、口上にてやり合うのが常であった。
平氏の武将・越中盛嗣が浜辺にいた源氏の伊勢三郎に「源氏の大将は誰だ名乗れ」と聞くと、伊勢は「鎌倉殿の弟君、義経殿だ」と答えた。
すると越中は「平治の乱で父を討たれ、奥州に逃げ込んだ小僧が大将か」と返す。すると伊勢は「言わせておけばぬけぬけと!貴様らこそ戦に負けて逃げ帰ったくせに」と両軍の挑発に緊張感が高まった。
するとその中から一歩前に出た教経は「そこをどけ!雑魚ども!」と叫ぶと、強弓を引き義経にめがけ矢を射った。
その矢は義経に向かって真っすぐに飛んでいき、義経の側近・佐藤嗣信は盾となってその矢を受けた。
矢は佐藤の左肩から右脇腹へ貫通して佐藤の命を奪った。
教経は矢を射続け、10騎を射落としたのである。
教経らは奮戦するも義経の挟み撃ちの攻撃を受け、平氏軍は敗走した。
壇ノ浦の戦い
同年3月24日、壇ノ浦の戦いでは午前中は潮の流れに乗った平氏軍が圧倒したが、潮の流れが変わると義経はタブーとされる船の船頭や漕ぎ手を矢で射った。
海動きが取れなくなった平氏軍は圧倒され、敗北は決定的になる。
もはやこれまでとの報告を聞いた二位尼(清盛の妻・時子)が孫の安徳天皇を胸に抱き海に身を投げると、平氏一門はぞくぞくと身を投げる。
しかし、教経は戦いをやめようとせず、弓矢で敵を次々と射続けた。
矢が尽きると右手に太刀、左手に長刀を持って敵の中に突っ込み、敵をなぎ倒していった。
その様子を見た平氏軍の事実上の大将・平知盛が「もう勝敗は決している。雑魚ばかり切っても仕方あるまい。これ以上罪作りなことはするな」と諌めた。
源義経の八艘飛び
大将からの言葉に教経は「ならば大将の義経と刺し違える」と言って義経の船を探す。
義経の顔を知らない教経は、豪華な甲冑をつけている武将を見つけて飛び掛かるも別人だった。
ようやく義経の船にたどり着いた教経は鬼の形相で義経の船に飛び移るが、義経は自分の後方の船や味方の船へと飛び移り教経から逃げてしまう、これが有名な「義経の八艘飛び」である。
義経を追っている間も、邪魔をする兵を海に投げ込みながら追いかけるが、義経には追い付かず逆に敵に周りを囲まれる。
覚悟を決めた教経は太刀・長刀・兜を海に捨てて「勇気のある者はこの教経を生け捕りにして鎌倉に連れていけ!鎌倉殿に一言、言いたいことがある!誰か相手はいないのか!」と叫んだ。
誰もがその気迫に尻込みしていると、30人力の怪力の持ち主として鳴らした安芸太郎時家が名乗りを上げる。
安芸太郎時家は自分と引けを取らない弟の次郎と、力持ちの従者と、「3人で一斉に飛び掛かれば何とかなる」と相談して立ち向かっていった。
3人は目配せをして一斉に教経に向かって飛び掛かるも、教経は慌てずに従者を海に蹴り落とし、残り2人の兄弟を両脇に抱え込み「お前たち死出の旅の供をせよ!」と叫んで2人を道連れに海に身を投げた。
教経の壮絶な最期を見た後に平氏の大将・平知盛も海に身を投げて平氏は滅亡する。
26才の生涯
壮絶な最期を遂げた平教経は、この時26歳であった。
ここでは軍記物語である平家物語をベースに書いてきたが、あくまで物語であるので全てが史実とは言い切れず、平教経には様々な説がある。
「猛将であった」「実は一ノ谷の戦いで死んでいた」「壇ノ浦の戦いでは死なず徳島県の祖谷に落ち延びた」という説も残っている伝説の人物である。
平氏って公家に近いイメージがあったのに、義経が逃げ出すほどの武将がいたんですね!